真田昌幸の足跡を巡る~川中島 ①
 
 佐久から上信越道に乗り、川中島至近の長野ICを目指します。
が、真田郷のある上田菅平ICの辺りから俄かに掻き曇り、物凄い豪雨に見舞われます。
風雲急を告げる天候に恐れをなして、一旦坂城ICで降りて、気楽な城“荒砥城”に寄って行きます。
 
 
『テーマパーク荒砥城』
 坂城は一時期北信濃全域を支配した、村上義清の本拠地で、居城の葛尾城はここにあります。 荒砥城は葛尾城の支城で、千曲川の対岸にあり、狭隘になる谷間を両城で挟んで抑え込む配置になっています。
 
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荒砥城から見る上田原 左の山のピークが葛尾城址
  
 荒砥城がなぜ気楽な城なのか…といえば、その現況にあります。
城の麓には上山田温泉があり、町は観光客誘致の目玉として、荒砥城址を復元整備し、戦国期の山城を再現しています。
茨城の逆井城などは有りますが、山城は珍しいので、大河ドラマの撮影にも使われて有名になっています。
 
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  怖いモノ見たさ半分で訪ねて見ましたが、他に観光客もなく、受付のオジサンに驚かれてしまいましたw
 
 \300を払って入城すると、二層の郭と物見櫓や矢倉門、兵舎などが整備されていますが、土塁ではなく平石を積んだ石垣が周囲を巡っていて、違和感を感じます。
やっぱり復元ではなく、考証が曖昧な復興の様ですね。
 
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この櫓、浅井長政が赤ん坊の江を抱いて登るシーンがありましたね
  
 大河ドラマでは『風林火山』で“海ノ口城”として使われ、『江』では小谷城の設定で使われたそうです。
史実はともかく、戦国の城の実態に近いモノはいちおう再現してるので、一部でこういう使い方はアリかなと思います。
 
 町の思惑は外れて、観光客はまったく居ませんでしたが、再来年の『真田丸』では使われるの必至でしょうから、シッカリ維持して欲しいものです。
 
しかし、この辺りの信州の山々はほんとに雄大ですね。見てるだけでほれぼれします。
 
 
 
『川中島(八幡原古戦場跡)』
 さて、少し休養を入れて、八幡原古戦場跡公園にやって来ました。
1561年に行われた第四次合戦の主戦場で、信玄の本陣の近くであり、合戦の状況が判る様に、史跡公園として整備されています。
 
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お馴染み、一騎打ちの銅像
 
 合戦の経過を改めて書く事もないですが、この戦いが昌幸の初陣であり、それが日本史上稀にみる激戦だった事は、14歳の昌幸にとって衝撃であり、武将としての自立を助けた事は間違いないでしょうね。
 
 昌幸は旗本の位置付けだから、信玄の傍近くに控えて、護衛してた事でしょう。
開戦後に不利な戦況が伝わって来て、遂には本陣に敵の大将が斬り込む事態(たぶん創作…)にどれほど対応出来たか…。
おそらく槍襖を造って妨害するくらいが精いっぱいだったでしょうね。
 
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なんとなく不気味な首塚、夜に来たら恐いでしょうねw
 
 
  此処には一騎打ちの銅像と、死んだ将士の首塚が有りますが、この首塚がなんとも不気味なオーラを発しています。
 
 武田軍4,000、上杉軍3,000と言われる戦死者数は、参加者の20%を優に超え、ハインリッヒの法則では全員が重軽傷を負っている状況です。
それだと戦後10年は軍事行動できない程のダメージだから、さすがにそれは無いでしょうが、同様な首塚が無数に出来た様で、少なくとも10%は死んだのでしょうね…。
 
 戦国期最強と謳われた、武田信玄と上杉謙信の直接対決。一撃必殺の鍛えられた者同士の激突だから、中途半端が無く、結果大きな犠牲になったのかな?
 
 首塚は戦後に海津城主の高坂昌信が、敵味方の区別なく遺体を回収して、ともに懇ろに弔った物だと言われ、その行為への謝意として謙信が甲府へ塩を送った…との話も有りますが、これも現代人には出来過ぎな気がする…。
ただ、日露戦争の頃までは戦の作法が残ってて、休戦日を設けて遺体回収や物資の交換などもしてるので、史実かも知れませんね。
 
 
 ところで、この第四次川中島合戦の経過には、どうにも合点が行かない点が幾つかあります。
  まず、山本勘助が考案したという“啄木鳥戦法”ですが、海津城から妻女山に至る山塊を見ると、とても1万2千もの兵が夜陰に紛れて、灯明もなく移動して、夜明けと共に一斉攻撃できる様な環境ではありません。
 
  二つ目は高所から奇襲して追い落とす役目の別働隊に全軍の6割も割く必要があるか? という事です。 源平の一の谷合戦を見ても、義経が率いたのは身軽に動ける少数精鋭でしたよね…。
 
 最後は、別働隊が上杉勢の移動に気付いて、八幡原に駆け付けるまでに異常な時間を掛けてる事です。 夜明けに予定通り妻女山の裏に辿り着いてれば、9月なら7時には留守に気付くし、8時には八幡原で戦いが始まっていて、鬨の声や鉄砲の音、鐘太鼓で開戦が判るのに、戦闘に参加出来たのは12時過ぎ…。
別働隊は僅か3kmの平地を、4時間余り掛けて駆け付けた事になります。
これはあり得ないので、ともかくヒントを探りに妻女山に登ってみます。
 
 
『妻女山』
八幡原から妻女山へはクルマで10分足らずで到着します。
R403が山の下を西に回り込んだ所に登り口があり、右側に『←妻女山展望台』の看板があります。展望台があるんだ、イイぞイイぞw
 低い山ですから、すぐに尾根に登り着きます。 
頂上にはお社があり、駐車場とトイレも整備された史跡公園になっています。 
もちろん鉄骨造りの展望台もちゃんと建っていました。
 
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期待の妻女山展望台
 
  山容としては比較的傾斜は緩く、徒士なら斜面を滑り降りる様な移動は可能に見えますね。
別働隊が攻めて来るであろう尾根の奥も緩やかに登っています。 
が、生えてる木々が雑木ばかりで、原生林の様相です。 
これでは山中の移動は困難を極める事でしょう…。
でも植生は450年も経てば変わりますからね。
 
 さっそく展望台に登って、謙信が見てた善光寺平の風景と海津城や川の配置などを見てみます。

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どおぉぉぉぉ~ん!
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・・・・・・・
 
 
あれ?…。
 
長野市さん、なんとかして考えてくださいよ。
 
 
  何のヒントもなく失意のうちに下山しますが、車中でふと考えたのは、謙信はなんでこの山に陣取ったのだろう?…という事でした。
 
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 本気で正面から野戦をするには明らかに不利で、囲まれたら何処かを強行突破して逃げるしかありません。
 
  おそらく信玄の“やる気”が強いのを察知して、動かざるを得ない状況を作り、隙が出来るのを待ってたんでしょうね。
 
 信玄はというと、挟み撃ちする為に、自身は妻女山の北側に布陣し、謙信が北に向かわざるを得ない状況を作ろうとした。その為の別働隊1万2千なのではないかな。
 
  誤算はその別働隊が朝までに移動を完了できなかった事で、土地に明るい真田勢がこちらに加わってるから、相当大きく迂回して背後に出ようとして、思う様には行軍出来ずに山中で夜明けを迎えたのでしょうね。
 
 さらに上杉軍が夜中に動いてて、先鋒軍が目的地に着いた時にはもう戦闘は佳境で、焦ったと思いますが、野戦というのは部隊毎に人馬の体勢が整わない事には、バラバラに駆け付けても効果はありません。
山中の縦隊行軍は時間が掛かるので、揃うの待ちの為に遅れたという事かな。

 とにかく、戦闘開始に全軍が揃わない武田側の戦術に見積もりの甘さがあったのは事実の様です。
(*以上は全て個人の憶測で、何の根拠も無いものです)
 
 
 こうした高度な智将同士の駆け引きを目の当たりにし、戦術が外れた時の精兵の恐ろしさを身をもって経験した昌幸にとっては、小さな功を得る初陣より何百倍も経験値になる、貴重な初陣だった事でしょう。