真田昌幸の足跡を巡る~佐久甲州街道 ②
 
 
『海尻城と城下』
 海尻城へは海ノ口から3kmほどで着いてしまいます。
しかも千曲川に沿ったほぼフラットな道のりです。 同じ様な場所に同じ様な名前の城…。これはひょっとしたら大きなポイントかも知れませんね。
 
 海尻の街並みを右手に見ながら、とても判りやすい『海尻城跡』交差点を左折して、醫王院の駐車所に停めさせて貰います。
醫王院の入口が海尻城の入口ですから、先に参詣して駐車場代(お賽銭)を忘れずに。

 

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醫王院の入口
 
 さっそく城址に登って行きますが、比高差は20mほどで、山上の主郭も砦程度の規模しかなく、そんなに大した城ではありません。 ただ、その立地は絶妙で、千曲川に八ヶ岳から合流する小川が刻んだ崖の上に建つ崖城で、主郭は崖に沿って伸びる痩せ尾根の上にあります。

 

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山上の主郭エリア 狭い尾根の削平地です   指揮所程度の機能しか果たせない
 
 城山のすぐ下には適度な平地があり、街道が走って海尻宿の集落が載ります。
なるほど、川と断崖を天然の堀として、集落も取り込めば、結構な規模の城塞になりますね。
しかも城の防御は完全に北(佐久平方面)を向いていて、前線基地として最適な立地です。
 
 かつては地の豪族が村上氏などの侵攻に抗した城址なんでしょうが、こういう立地を見つけて、整備するのは山本勘助の得意とした所なので、勘助の意志が入ってそうな海尻城です。
 
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宿場跡のエリア 随所に古い建物があります
 
 いずれにしても万余の兵を駐屯させる広さではなく、海ノ口との分宿は必須です。
甲陽軍鑑が書かれたのは百年以上後の事なので、2つの宿と城は混同され、併せて“海ノ口”とされたのかも知れませんね。
 
 
 
『岩尾城』
 旅は更に続いて、いよいよ佐久平の中心に出て中山道と合流します。
次の目的地は“岩尾城”です。 あまり聴かない城名ですね。
 
 佐久平には多くの城址がありますが、なぜ此処を選んだかと言うと、信玄は1543年に此処を攻略しますが、1545~51の6年間、岩尾城の城代を務めたのが中途採用の真田幸隆だった…という説があるのです。

 

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城の素性看板にも真田の記述があります。
 
 幸隆はこの城を拠点に、佐久郡、小県郡の旧知の諸将調略に手腕を発揮する訳ですが、この年代は昌輝(1545年)、昌幸(1547年)の生年と被ります。
つまり、昌幸は岩尾城で生まれた…のかも知れないのです。
 
 ただ、幸隆が真田郷を追われた“海野平合戦”が1541年で、武田家への仕官は早くて1543年です。 信玄が家臣の血と引き換えに奪った城を、新参の幸隆に任せるにあたり、妻子も付けて赴任させたかは大いに疑問があり、可能性は極めて低い事も付け加えときますw
 
 岩尾城は佐久市鳴瀬の、千曲川に支流の湯川が合流する地点にあり、川が削り残した低いながら切り立った堅固な小丘の上にあります。
 城址には伊豆・箱根三島神社がありますが、周囲は道が狭く、駐車場も無いので、駐車場探しから始めますが、200mほどの場所にコンビニが有ったので、給水のついでにお願いしたら、快く置かせてくれました。
 
 常日頃思う事ですが、長野の人は“露骨に嫌な顔”を絶対にしないですよね。
旅人にはとても助かる良い土地柄です。
 
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なぜか、堀底に残る墓石 
 
   城址に入って行きます。
前述の小丘の手前に一段高くなった広い畑地があり、これは明らかに大手の郭の跡ですね。
神社の参道に沿って丘上の主郭に登って行きます。 きちんと土塁脇に空堀を巡らせてあり、本格的な城です。

 

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岩尾城主郭部
 
 壇上の主郭はかなりの広さがあり、50m×200mくらいの細長い土地を、低い土塁で幾つかに区切って使った様な痕跡がありました。
この城は勝頼の時に、佐久平の中心拠点として本格的に補強整備した様ですから、さもありなん…ですね。
 
 この主郭の先(川の合流地点近く)にも郭が有るらしいのですが、遠くから見たところ“採石場”っぽい施設があって、丘を崩している様にも見えたので、少し心配ですね。
県の史跡指定なので気のせいかな。
 
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岩尾城遠景
 
 
さて、明日はいよいよ昌幸の苦い初陣の場所“川中島”に入って行きます。