真田昌幸の足跡を巡る~佐久甲州街道 ①
 
一夜明けて、さっそく佐久甲州街道走破と沿道の由縁の場所を巡って行きます。
*本当は朝イチで新府城を訪ねましたが、それはそのタイミングでアップします。
 
 
 佐久甲州街道は甲州街道を須玉で別れ、八ヶ岳の東麓を抜けて佐久平に出て、岩村田で中山道に合流する街道で、現在のR141がほぼそれにあたります。
昌幸は7歳で真田郷から甲斐府中に出仕する際に通ったのを初め、自領との行き来だけでなく、碓氷峠からの関東侵攻や川中島の決戦で幾度となく辿った道です。
 
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『信玄棒道』
 棒道については残る資料が乏しく、専門家の議論が分かれる所ですが、信玄は烽火台の整備で情報戦を制したとも言われます。 情報だけ得ても実際に兵馬や物資のロジスティクスを整備しないと実行動は伴わないので、ここは両面で整備したと思いたい所です。
 
   棒道の位置ですが、八ヶ岳南麓を東西に貫く様に拓かれていて、ちょうど甲州街道と佐久甲州街道の双方の標高の高い地点をほぼフラットに繋いでる感じです。
 
 これは何を意味するのか…という事ですが、佐久方面の戦力と諏訪方面の戦力を移動させる際に距離をショートカットすると共に、上り下りのロスを大幅に省くもので、たぶん一日以上早い展開を可能にしたと思われます。

 

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刻々と表情を変える八ヶ岳の山塊
 
 限られた戦力を情報と物流のスピードで有効に使い、戦いを制す。
武田軍団の強さの源泉はスーパーヒーローの存在ではなく、こうした地道な積み重ねが有ってのものなのです。
 
 棒道を見るには、中央道を小淵沢ICで降り右折。八ヶ岳高原ラインを3kmほど走り、 ゴルフ場を越えた所に『信玄棒道』の標識とともに交差する道が見れます。

 

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八ヶ岳南麓を貫く“棒道”
 
 
『野辺山高原』
 佐久甲州街道に戻って峠道を延々と登って行きます。 須玉から標高差700mを登った所に平沢宿があり、さらに200m登り切ると標高1400mの野辺山高原に出ます。

 

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清里辺りから振り返る南斜面の景色  リッジラインが綺麗です
 
 JR小海線の“野辺山駅”は最高地点の駅として有名ですが、辺りは牧場と高原野菜の産地として有名で、牧歌的な風景が広がります。
が、当時の野辺山は平沢宿から海ノ口宿まで8里(32km)にわたり民家も無い、街道一の過酷な道程だった様で、盗賊や野生動物の脅威に晒される道のりでした。
護衛が居るとはいえ、7歳の昌幸の旅はまさに命懸けだったのです…。

 

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八ヶ岳東麓に広がる高原と野菜畑
こうして開墾されるのは近年の事で、先の大戦後の外地からの引揚者の入植が最初でした。
 
 
 
海ノ口城と城下』
 野辺山高原を北に一気に下り、千曲川沿いに平地が現れ始めると海ノ口に着きます。海ノ口城といえば聞いたことのある名前でしょうが、“信玄が初陣で落城させた城”と伝わります。

 

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海ノ口城遠景  どの山が城址なのか、パッと見では判らない
 
 簡単に説明すると、1536年、武田信虎は佐久方面に侵攻し、8千の兵で海ノ口城を囲みます。 
城将の平賀源心は2千の兵で籠城し、なかなか落ちません。 
やがて冬本番になり、武田勢は囲みを解いて撤退を始めます。
 
 信玄はこの時が初陣でしたが、さしたる戦功も無い為、殿軍を申し出て、300の兵と共に最後に城を離れます。
 籠城してた平賀源心は武田勢の撤退を見届けると『正月の準備をせよ』と解散命令を出し、籠城兵達は各々自宅に戻ります。
 兵が80人ほどになった海ノ口城に突如信玄の兵が殺到し、アッと言う間に落城してしまいました。
 
 これも“甲陽軍鑑”にある記述のみで、いろんな意見がありますが、信虎が嫡男の信玄より弟の信繁を溺愛する為、危機感を抱いた信玄の傅役の板垣信方が一計を立て、信玄に画期的な戦功を立てさせる為に仕組んだ戦術の様です。
この後は重臣の大半が信玄を支持し、5年後の無血クーデターにつながりますが、それを正当化する挿話かも知れませんね。

 

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クルマで入れる最深部まで入って見ました。 どうやら正面の山上がそうらしい。
 
 いずれにしても真田氏が武田に与する前の出来事ですが、これ以降、海ノ口城と城下は佐久平侵攻の兵站拠点として整備され、街道の宿としても賑わうのは事実の様です。
 
 ところが、海ノ口兵站基地説には異を唱える意見もあって、その理由は地理的条件から拠点にしたのは次の“海尻城”ではないか?…というものです。
 確かに、海ノ口城はさして見通しも良くない山城で、街道とは少し奥まった谷の奥にあり、街道を扼する良い立地とは言えませんね。
海尻城がどうその条件を満たしているのか… 早く見てみたいですね。