真田昌幸の足跡を巡る~甲斐府中 ②
 
 続いては、躑躅ヶ崎館の詰め城の“要害山城”を訪ねてみます。
この城は信玄の先代の信虎が、躑躅ヶ崎館とセットで整備したもので、昌幸が居る頃には詰め城が機能する事はありませんでしたが、想定した訓練や整備補修事業などで幾度となく訪れたに違いありません。
 
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躑躅ヶ崎館から見る要害山城 真ん中の丸っこい山がそうです。
 
 躑躅ヶ崎館から北へ2kmほど行った山塊に要害山城は築かれています。
信虎期の甲斐はまだ、守護の武田氏のほか、大井、穴山、飯富、小山田などの国人衆が入り乱れて争う時代があり、城下に攻め込まれ、詰め城に引いて守る“山城の戦略”は必須でした。
*信玄自身も退避中の要害山城で生まれたそうです
 『人は城、人は石垣…』などと言えたのは、国内を統一し終えて、他国へ討って出る戦術と戦力を整備する過程での事ですね。
 
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積翆寺と背後の要害山城址 快くクルマを停めさせて戴き、登り方まで教えてもらいました。
 
 要害山に向けてクルマで登って行き、ほぼ登り詰めた根小屋の位置に“積翆寺”があります。
ここにクルマを停め、更に徒歩で5分ほど登ると温泉旅館があり、要害山城の登り口になっています。
 
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城の入り口にある『要害温泉』 下図の左下の位置
 
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橋を渡るとある復元図の看板
かなり本格的で大規模な詰め城で、根小屋から上の部分だけ描かれているが、ここに至る谷間の緩斜面も幾重にも防塁が有った様子で、防戦して少しずつ引きながら、最後に籠城…の戦略が覗えます。 
ただ、家が拡大して野戦が得意な後期の武田氏にとっては守り難い城であり、勝頼の新府城築城になった事は理解できる縄張りです。
 
 
 想像以上に大きな城で、本格踏破の準備も無かったので、数歩だけ足を踏み入れてみますが、石垣を多用した遺構もあり、武田氏以後も躑躅ヶ崎館の詰め城機能が維持された様です。
此処は改めて単体訪問します。
 
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登り口にある石段と門跡?の石積み
 
 
 夕暮れが近付いたので、最後に信玄公の墓所にお参りして甲府を離れます。 
信玄の墓は恵林寺など数箇所に伝承があり、特定はされていませんが、躑躅ヶ崎館の南東1kmの岩窪にも墓所があります。
 
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護国神社にほど近い岩窪町にある墓所  信玄単独の墓ですが、よく整備されています
  
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↑埋葬までの経緯がよく判ります  これを読んで、甲府市民の本意が判り安心しましたw
 
 三河野田城での重篤な状態~伊那駒場での逝去~秘匿しての府中への帰還。側近の昌幸にとって悲痛な上にも多忙な日々だった事でしょう。
 少年期、青年期を傍で過ごし、父親以上の存在だった信玄の死は、武田家中に居る意味を考える大きな心理の転機だったかも知れませんね。
信玄に仕えて19年、昌幸26歳の事です。
 
 
明日は甲斐府中と北信の領地:真田郷をつなぐ“佐久甲州街道”を辿ってみます。