関東の城探訪   東京都 世田谷城         登城日2014.07.13
 
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 太田道灌の回で出て来た、奥州吉良氏の居城:世田谷城に行ってきました。
 
吉良氏は江戸時代の“赤穂事件”とその後の講談で、すっかり悪役にされてしまっていますが、下表の様に足利将軍家の支流で、『将軍家に跡継ぎ無ければ吉良が継ぎ、吉良が絶えれば今川が継ぐ…』とまで言われた名家です。
 
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 “松の廊下”の吉良上野介は三河吉良家の義央であり、世田谷城主なのは奥州吉良家でした。
 
 奥州吉良氏は初代の鎌倉公方:足利基氏(尊氏の次男)に招聘されて武蔵国荏原郡を領し、領内の世田谷の地に居館を建てて居住しました。  基氏から“御一門”の待遇を受けていたため、世田谷の居館は“世田谷御所”と呼ばれたそうです。

 

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世田谷城址にある豪徳寺 井伊家の菩提寺なのですね
  
 時代が流れて、関東が戦乱の様相を呈してくると、当主の成高は居館を大改修して城に仕立てます。
現在の“世田谷城址公園”と隣接する“豪徳寺”の敷地を合わせた規模の平城でしたが、幸いこの城での合戦は無かった様です。
 
 “長尾景春の乱”では領地を接する太田道灌と結び、忙しい道灌に代わって江戸城の留守を守ったりしています。
 道灌もまた懸命にヨイショしなが上手く使った様で、武力はともかく、権威のある吉良家を味方にする事で、景春よりも将軍家に近い位置を抑えています。
 
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 世田谷城の遺構としては、豪徳寺の参道脇に長い土塁が残っています。城址公園の方は下半分を石垣で固めた(もちろん近代の施工)土塁&空堀がウネウネと這っていますが、防御施設として何の部分なのかよく判りません。
こちらには“世田谷御所”の格式ある御殿を建てる平地が無いので、豪徳寺の敷地が本郭だったのでしょうね。
 
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ひこにゃんがイッパイ 
 
 その後の奥州吉良氏は、北条氏の侵攻に際してはいち早く恭順し、所領を安堵されて北条の傘下に加わっています。
しかし、多くの地の豪族が、“○○衆”という風に幾つかに編成されますが、吉良氏だけは“将軍御一家”という特別扱いで、独自性を認められています。
 
 北条家とも姻戚関係を重ねて、権威を利用されていますが、“小田原征伐”の時の籠城メンバーに名前が見えないから、戦力としては期待されていなかったのかな?
 
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吉良氏の墓所は1kmほど西の勝光院
北条支配以降の当主と一族が眠っています 
 
 徳川の治世では高家旗本として取り立てられ、領地の蒔田(横浜市)から蒔田氏を名乗りますが、三河吉良家が廃絶すると吉良に復姓します。
 
  
 
 
 ほど近い九品仏にある支城の“奥沢城”にも行って来ました。
奥沢城の敷地がそのまま九品仏浄真寺になっている…と聴いていたので、浄真寺を目指します。
 
 門前に着くとちょうど“盂蘭盆会”の当日とあって、かなりの賑わいです。
浄真寺境内の案内看板があったので、奥沢城の遺構を探すも、“お”の字もありません。
『こりゃ間違えたかな…』と、交番で寺の素性を聞いてみます。
出て来た若いお巡りさんもよく判らないらしく、いろいろ調べてましたが、『そうです、奥沢城の跡を賜って建てたそうです』と教えてくれました。
『城らしきものは有りますか?』と問えば、『全然判りません』との返事です。
若いお巡りさんには、ベンチで囁く恋人しか興味ないんかな?(これは…古すぎて判らんかwww)
 
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浄真寺境内に唯一ある奥沢城の文字
 
 余談が多すぎましたが、境内の外周には明らかに城の土塁が巻いています。浄真寺を建てる際に多少は改修されたでしょうが、平城というか、足利の鑁阿寺の様な中世居館の趣を強く感じますね。
 
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境内の隅の土塁脇に積まれた“結構な巨岩”の数々 
これ、どう見ても庭石で、数からして広大な庭園が有ったのではないかな?
支城というより別荘臭いですね。 
 
将軍家に跡継ぎ無ければ吉良が継ぎ、吉良が絶えれば今川が継ぐ…』
足利幕府が怪しくなったとき、今川義元はその姿勢を示しましたが、№2の吉良家は権威のみで肝心の力が無く、結局使えませんでしたね。