関東の城探訪  東京都 稲付城    登城日 2014.07.06
 
イメージ 1
 
 
  江戸城の出城で、太田道灌が築城したと言われる“稲付城”に行って来ました。
 
  江戸城の北約10km、現在の北区赤羽の駅前に城址はあります。
その昔、荒川の支流“入間川”が氾濫したら、大量の稲が流れ着く場所
だったことから“稲付”(いねつき)と呼ばれた土地の様です。
 古くから岩槻街道が通り、荒川を渡る“岩淵の渡し”を控えて“岩淵宿”があり、太田道灌が城塞を築く動機は十分ですね。
 
イメージ 2
静勝寺(本郭跡)の全貌
全体が見えるカメラポイントがなく、イトーヨーカドーのタワーパーキングにお邪魔して撮りました
 
 埼京線を赤羽で降り、西口から城址を目指します。
この街、初めて来ましたが、首都圏には“赤羽女子”と呼ばれる種族が
居るくらいだから、もっとお洒落な街かと思っていましたが、逆に昭和の雰囲気が残る庶民的な街ですね。 
商店街も大山のハッピーロードとよく似ています。
 
 駅舎の南の端から西に向くと、城址の中心の“静勝寺”の杜が見えています。 
段丘の舌状台地といっても、比高差はせいぜい10mほどだから、周囲の住宅に埋もれてて、大きい樹木の分だけ盛り上がってる感じです。
 
イメージ 3
静勝寺(本郭跡)境内と本 
反対側に太田道灌の木座像を祀った廟があります 
 
  杜を目指して歩いて行くと、参道の石段の麓に着きます。 
なるほど、中世の城には十分な段差と傾斜です。 
石段脇には“稲付城跡”の石柱があり、簡単な案内看板もあります。
道灌の死後に孫の太田資高とその子の太田康資が居城し、北条の治政
で周辺五ヶ村を知行した…とありますが、道灌築城はあくまでも伝承の様です。
 
 石段を登って行くと静勝寺の平らな敷地になりますから、いきなり主郭です。 
駅からここまでの間は完全に市街化されてるので、致し方ありませんね。
 
   寺の境内から南に向けては同じ高さで台地が続いています。
それを何本かの空堀で仕切った“連郭式平山城”の様です。
少し南に“堀底道”の様な形状の道路が走っていて、その南の“普門院”
の敷地までが城域の様ですね。 
だとすれば三郭構造かな?
 
イメージ 4
空堀跡? と思しき地形の名残りがあります 
 
 
 最後に築城時期ですが、道灌築城だとすれば、時期については、“長尾景春の乱”のさ中の1478年が非常にクサイ気がしますね。
それ以前だと、この地は豊島一族の領地の奥深くです。
豊島氏の平塚城の下を通って、志村城の目の前での築城なんて無理
でしょう。
豊島氏を平らげた後、下総に討って出る直前に、北の古河公方本隊
の侵攻に備えて…というのが動機としてはシッカリしてると思います。
(この時は江戸城の留守居を世田谷の吉良氏に依頼しているし…)
いずれにしても、戦闘に使われた城でないのは確かです。
  
 
イメージ 5
旧岩槻街道  少しだけ雰囲気が残っている 
 
 
 城址を後にして、岩槻街道(旧道)を歩いて荒川堤防に行き、“岩淵の渡し”と少し北の中山道“浮間の渡し”を見に行きました。
 
イメージ 6
“岩淵の渡し”跡あたり   遺構は何もありません 
 
イメージ 7
“浮間の渡し”跡あたり
浮間公園にはなっていますが、遺構保存はおろか看板すら何もありません 
 
  堤防が高くなって、河川改修も進んでいますが、妄想の範囲で雰囲気は味わえましたが、どちらも残念ながら石碑や看板は発見できませんでした。