岡の城は誰が造ったのか? 東京都  道灌山砦  登城日2014.06.14
 
 
 最後に、太田道灌の痕跡も訪ねて見ます。
実在が証明されてはいないのですが、日暮里に道灌山という土地があり、太田道灌の砦の跡…と言われています。
 
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荒川の河岸段丘は埼玉から東京の上野まで続き、幾つもの崖端城が存在しました。
道灌山砦は最下流の城です
 
 
  西日暮里駅の西側、都道の切通しで分断されてはいるものの、東を見下ろす高台に江戸城の支城の砦があったそうです。
豊島領の裏側の江戸城と連携して、前線の平塚、志村の城を見張る“出城”が有ったとしても不思議ではなく、場所的にも実在の可能性は高いと思われます。
 
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道灌山北側
比高差30m近い高台で、奥は開成中学・高校の敷地になっている 
 
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道灌山南側
史跡公園になっていて、砦の雰囲気が残る
 
 
 まず史跡公園から攻めてみます。
 
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高台上の公園内
東に開けてて、ここも例の丸石の縁石がいっぱいある
  
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 江戸時代には風流を愉しむ場所だった様ですね
 
 
次に北側に行って見ます
 
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学校の周りは閑静な住宅街 
 
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 坂の名前もお洒落
 
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 東側を見下ろすと
マニアには、こりゃたまらんRun!
 
 
 改めて書く事でもありませんが、豊島氏と太田道灌は、江古田原で決戦を行ない、太田道灌の圧勝のうちに終わります。 
一度は降伏した豊島泰経ですが、赤塚城に拠って叛旗を翻すものの、再び太田道灌に攻められて敗北し、行方知れずとなって豊島氏は滅亡しました。