真田昌幸の足跡を巡る~吾妻郡
群馬県 白井城 登城日 2014.04.12
所在地 群馬県渋川市白井(旧北群馬郡子持村)
城郭構造 連郭式平城(崖端城)
築城年 15世紀前半 室町時代
築城主 長尾景仲
主な改修者
主な城主 白井長尾氏、本多氏
廃城年 18623
遺構 石垣、土塁、堀
文化財指定 群馬県指定史跡
城郭構造 連郭式平城(崖端城)
築城年 15世紀前半 室町時代
築城主 長尾景仲
主な改修者
主な城主 白井長尾氏、本多氏
廃城年 18623
遺構 石垣、土塁、堀
文化財指定 群馬県指定史跡
沼田城を閉め出されたので、白井城を訪ねました。
白井城は昌幸にとって関わりの深い城ではありませんが、幸隆の時代には争奪戦の激しかった城でした。
白井城は昌幸にとって関わりの深い城ではありませんが、幸隆の時代には争奪戦の激しかった城でした。
白井城は北関東の歴史上では重要な位置を占めた城で、戦国期のいろんな書物や絵図には必ず出てきます。
何が重要なのかと言えば、まず立地です。
何が重要なのかと言えば、まず立地です。
利根川と吾妻川の合流点にあり、地形も狭隘な場所で、ここを通る北国街道に吾妻から長野街道が合流する、古くからの交通の要衝ですね。
次には城主ですが、関東管領山内上杉家の家宰である白井長尾家がこの地を治めていたのです。
関東の公方~管領~家宰の構図は複雑で、短文では表現しにくいのですが、要するに関東の№2の実力者の拠点…という事で、この地域の政治の中心です。
関東の公方~管領~家宰の構図は複雑で、短文では表現しにくいのですが、要するに関東の№2の実力者の拠点…という事で、この地域の政治の中心です。
初めて白井の地に入ったのは長尾景忠で、景忠は上野と越後の二ヶ国の守護代を務める実力者でした。
因みに、後に越後は弟の景恒に譲り、越後長尾氏になりますが、その8代後の当主が長尾景虎(上杉謙信)です。
その長尾氏の長尾景仲が関東の覇権をめぐる戦乱に際して築城したのが白井城で、合流する川が洗って出来た崖上にある典型的な崖端城で、城の東には北国街道が通り、“白井宿”が古くからありました。
舌状台地の上面は平坦で、敷地に余裕のある縄張りです
山内上杉家の上州支配も、北条の勢力拡大で厳しくなり、上杉憲政の越後逃亡後は武田の侵攻も受けて、1560年ついに真田幸隆により落城して、白井長尾氏は武田への従属を余儀なくされます。
武田滅亡後は滝川、北条の支配を受けながら存続するのですが、秀吉の北条征伐で前田・上杉軍に囲まれて降伏・開城し、白井長尾氏の支配は終わります。
新たに関東に入封した家康は、白井城を存続させ、本多康重に2万石で与え白井藩とします。
新たに関東に入封した家康は、白井城を存続させ、本多康重に2万石で与え白井藩とします。
その後藩主は何人か入れ替わりますが、最後は康重の二男本多紀貞が入り、無嗣子改易により、白井城は廃城となってしまいます。
江戸時代の白井長尾家は米沢藩(上杉家)の家老として存続し、また室町時代の構図に落ち着いています。
白井城を歩く
1.アプローチ
沼田ICから関越道に乗って、渋川伊香保ICで降りてR17を北上すること3分、左手に“道の駅こもち”があり、ここが登城の拠点になります。
1.アプローチ
沼田ICから関越道に乗って、渋川伊香保ICで降りてR17を北上すること3分、左手に“道の駅こもち”があり、ここが登城の拠点になります。
なぜなら、他にそれらしい駐車場がありません。
道の駅“こもち”
2.白井宿
道の駅の裏手(西側)が白井宿の北の端の起点になっていて、地方の宿場の良い雰囲気を遺しています。
道の中央を疎水が流れ、桜の並木になった街道が1㌔ほど続き、所々に井戸やら高札やら石仏やらあって、時代をタイムスリップして行き、南の端に着くと城址…という感じで、結果的にオススメのルートを歩いてきた様です。
道の駅の裏手(西側)が白井宿の北の端の起点になっていて、地方の宿場の良い雰囲気を遺しています。
道の中央を疎水が流れ、桜の並木になった街道が1㌔ほど続き、所々に井戸やら高札やら石仏やらあって、時代をタイムスリップして行き、南の端に着くと城址…という感じで、結果的にオススメのルートを歩いてきた様です。
宿場の西側にはずっと段丘の台地があって、その上が白井城になっています。
城へのアプローチは北から“上之坂”“中之坂”“下之坂”の3本が昔からの登城路らしく、“下之坂”から入ると城址公園になっていますが、もっと手前の郭からのアプローチを企図して“中之坂”から入ってみます。
城へのアプローチは北から“上之坂”“中之坂”“下之坂”の3本が昔からの登城路らしく、“下之坂”から入ると城址公園になっていますが、もっと手前の郭からのアプローチを企図して“中之坂”から入ってみます。
城下町の“白井宿” 良い整備がされてます
3.外郭部
この道を登って行くと“北郭”の入口の様ですが、両方に民家が建ち、堀切らしい遺構がありません。
この道を登って行くと“北郭”の入口の様ですが、両方に民家が建ち、堀切らしい遺構がありません。
埋められたのかな?
登り切った辺りで比高差は20mくらいか? 歩いてみてそう険しさは感じませんでした。
登り切った辺りで比高差は20mくらいか? 歩いてみてそう険しさは感じませんでした。
まもなく“櫓台”らしき土盛りが見えてきて、台上には神社が建っています。
その麓に“北郭”の新しい石標が建ってて、そこを起点に南へ道路が続いています。これが本丸に続く道に違いないので入ってみます。
北郭入り口にある神社 大手の櫓台跡に違いない
郭内は広い一面の畑作地で、農作業に勤しむ人の姿もちらほら。
大きな川原石が膨大に集められた場所もあって、城跡を耕作する際に出た構造物の石である事が伺えます。
この状態は、台地の幅を徐々に狭めながら“三ノ丸”“二ノ丸”と続いて行きます。
それぞれの郭の間は空堀で仕切られてて、明らかにその痕跡が残ります。
それぞれの郭の間は空堀で仕切られてて、明らかにその痕跡が残ります。
大手道が土橋になっていて、両側は斜面で竪堀になっていたと思われます。
深さは現状で3mほどですが、内側に掻揚げ土塁が無いから、埋め戻されてますね。当時は5m以上あったでしょうね。
虎口に対する“馬出し”などの遺構は見当たりません。
郭を隔てる空堀の跡 今は堀底も畑です
奥に見えるのは榛名山
4.本丸跡
郭上からは西に榛名山系、東に赤城山系が見渡せ、長閑な気分で進んでいくと、“本丸”が見えて来ます。
ここからは“城址公園”として整備されており、本来のサイズの空堀が走っていて、東側は横矢構造にもなっています。
郭上からは西に榛名山系、東に赤城山系が見渡せ、長閑な気分で進んでいくと、“本丸”が見えて来ます。
ここからは“城址公園”として整備されており、本来のサイズの空堀が走っていて、東側は横矢構造にもなっています。
虎口の土橋を渡ると門の跡で、少しながら石垣を使った枡形になっていますが、これは江戸時代の改変でしょうね。
本丸の堀はそれなりの規模があります
本丸に入ると1000坪以上の広い平坦地で、周囲に3mほどの土塁が巡り、見るからに本丸ですが、少し古い構造をそのまま踏襲した事が判ります。
公園内でありながら、一部には畑があってビックリします。
公園内でありながら、一部には畑があってビックリします。
広々とした本丸内部 周囲は高い土塁が巡っています
土塁上を歩いて見ると、東は台地の斜面で20mの高さがあり、下にも土塁が並行して築いてあります。
土塁が途切れた所がまた枡形になっていて、“下之坂”から入るとここに繋がるのでしょうね。
南側には少し下がってもう1郭あり、端には“物見櫓”状の土壇があって城の先端になっています。
西側は直接吾妻川の浸食崖になり、20m以上の垂直に近い断崖であり、こちらからの攻城はまず考えられませんね。
西側は直接吾妻川の浸食崖になり、20m以上の垂直に近い断崖であり、こちらからの攻城はまず考えられませんね。
5.下城
舌状台地の連郭式平城だから、地形を活かした縄張りは強固です。
舌状台地の連郭式平城だから、地形を活かした縄張りは強固です。
こうした城の攻め口は台地続きの北側…という事になるのですが、市街化して防御遺構が無いのもこのエリアです。
史実でも前田・上杉に攻められ、“北郭”まで攻め込まれて降伏していますから、興味の沸く部分ですが…。
江戸期に入っても使われた割には、戦国期の匂いがプンプンする縄張りです。
入って来たのが“陣屋大名”規模の顔ぶれで、短期の入れ替わりだから、大きな改造には至らなかったのでしょうね。
森や藪の遮蔽物が少なく見通しの良い“判りやすい”城です。
周囲の景色も素晴らしいし、城下の“白井宿”も雰囲気良いので、家族でピクニックがてら訪れるに最適な城に思えます。
森や藪の遮蔽物が少なく見通しの良い“判りやすい”城です。
周囲の景色も素晴らしいし、城下の“白井宿”も雰囲気良いので、家族でピクニックがてら訪れるに最適な城に思えます。