日本100名城 №6 盛岡城 登城日 2014.5.10

所在地 岩手県盛岡市内丸
城郭構造 連郭式平山城
通称 不来方城
築城年 1598年() 安土桃山時代
築城主 南部信直
主な改修者 南部重直
主な城主 南部氏
廃城年 1871年(明治3年)
遺構 石垣、土塁、堀、移築土蔵・門
文化財指定 国の史跡
城郭構造 連郭式平山城
通称 不来方城
築城年 1598年() 安土桃山時代
築城主 南部信直
主な改修者 南部重直
主な城主 南部氏
廃城年 1871年(明治3年)
遺構 石垣、土塁、堀、移築土蔵・門
文化財指定 国の史跡

春の桜も一段落した5月の休日を狙って、北東北の百名城の4城を巡って来ました。
今回は列車の旅で、東北新幹線がベースになります。
今回は列車の旅で、東北新幹線がベースになります。
仙台以北を訪れるのは本当に久しぶりで、北上盆地に列車が入ると、車窓には新緑の山々に囲まれた豊かな穀倉地帯の田園風景と、時節柄農作業に勤しむ農家の人たちの景色が続き、とても穏やかな安堵感に包まれます。
これが真冬だと、自然の厳しい“寒々しい”景色に映るから、太陽の有り難さを感じますね。
まず最初は岩手の盛岡城を訪ねます。
盛岡城は北陸奥の雄“南部氏”の拠城です。
“新羅三郎義光”を祖とする源氏の名家で、岩手、青森の広大な地を領地としています。
南部氏は秀吉の“東北仕置き”においてこの地の領有を確定しましたが、“太閤検地”での石高は僅か10万石であり、当時の東北地方の耕作に対する自然の厳しさが伺われます。
ただ、江戸末期には石高20万石に改訂されており、江戸期を通じた農業改良の努力の成果が表れています。
南部氏の本拠地は以前は九戸(岩手県最北端)でしたが、蒲生氏郷の助言により、盛岡に新城を築き、1598年に竣工した城で江戸期を15代で守り抜き、維新を迎えました。
ただ、江戸末期には石高20万石に改訂されており、江戸期を通じた農業改良の努力の成果が表れています。
南部氏の本拠地は以前は九戸(岩手県最北端)でしたが、蒲生氏郷の助言により、盛岡に新城を築き、1598年に竣工した城で江戸期を15代で守り抜き、維新を迎えました。
盛岡城を歩く
1.アプローチ
盛岡城は徒歩圏なので、盛岡駅を南口で出て、東に歩きます。
1.アプローチ
盛岡城は徒歩圏なので、盛岡駅を南口で出て、東に歩きます。
すぐに北上川畔になり“開運橋”という縁起の良い名の橋があるので渡ります。
橋上からは岩手のシンボル“岩手山”がキレイに見えますよ。
橋を渡ると五差路の交差点になるので、斜め右の通りに入って行きます。“開運橋通り”という繁華な通りですが、直線路で1km弱で盛岡城の下にたどり着きます。
着いた所は“二ノ丸”の高石垣が眼前に聳える“榊山曲輪”の跡で、スロープ状の登城路があるので登って行きます。
着いた所は“二ノ丸”の高石垣が眼前に聳える“榊山曲輪”の跡で、スロープ状の登城路があるので登って行きます。

見事な石垣の城です!
オジサン、コート着てるけど、そこまで寒くないw
2.曲輪群跡
盛岡城は東北には珍しい“石の城”で、ほぼ総石垣の城と言えます。
盛岡城は東北には珍しい“石の城”で、ほぼ総石垣の城と言えます。
これは城歴が比較的新しい“安土桃山時代”の城なのと、先に触れた様に、会津の蒲生氏郷の助言で築いた城なのが大きいでしょうね。
“穴太衆”を抱える氏郷が技術支援したのはもちろんのこと、石材確保の観点から用地選定にも花崗岩の山だったこの地をアドバイスしたのではないかと考えられます。
打ち込み接ぎの石垣ですが、積み方や曲線は松阪の城に似ています。
スロープを登ると腰曲輪で、吹上馬場~淡路丸と本丸の南下の壇になります。
建物等はなく、一面が桜の木で埋まった“市民の憩いの場”になっていますが、背後に聳える“三階櫓”の櫓台の石垣が妙に空いているのが気になります。
張り紙があって、『ブルーシートの重しに石垣の石を抜くのはおやめください』とありました。 これはいけません!
建物等はなく、一面が桜の木で埋まった“市民の憩いの場”になっていますが、背後に聳える“三階櫓”の櫓台の石垣が妙に空いているのが気になります。
張り紙があって、『ブルーシートの重しに石垣の石を抜くのはおやめください』とありました。 これはいけません!

天守台の石垣
石が大きく、綺麗に積んでます
3.本丸
盛岡城にも“天守”はありません。
盛岡城にも“天守”はありません。
そこで“三階櫓を天守に代用していた”…という話を色んな城でよく聞きますが、位置関係から見て完全に天守として建てられたモノですね。
中小の藩の場合、高層の天守を持つ事は他藩のやっかみ以上に財政的な負担が大きく、三層程度が手頃なサイズだった…というのが本音で、“江戸城の天守を再建しない幕府に遠慮して”三階櫓という名称を代用してたのが実態の様ですね。
三階櫓の横から本丸に登る石段があるので登ってみます。
三階櫓の横から本丸に登る石段があるので登ってみます。
本丸はさほど広い敷地ではありませんが、看板を見ると敷地いっぱいに御殿が在った様です。
ここも櫓台の他は遺構の無い広場ですが、銅像の台座がポツンと残っています。 見れば、南部家42代当主で日露戦争に従軍した方の騎乗像だった様ですが、先の大戦で供出された後、復元されてないそうです。
ここも櫓台の他は遺構の無い広場ですが、銅像の台座がポツンと残っています。 見れば、南部家42代当主で日露戦争に従軍した方の騎乗像だった様ですが、先の大戦で供出された後、復元されてないそうです。

太鼓橋の朱色がよいアクセントになっています
4.二ノ丸
本丸から北の二ノ丸へは、空堀で仕切られており、紅い太鼓橋が架かっています。
本丸から北の二ノ丸へは、空堀で仕切られており、紅い太鼓橋が架かっています。
二ノ丸には本丸に建てきれない御殿の一部が在った様で、この橋は屋根のある“廊下橋”だった様です。
この間の空堀は緩やかに東に下っており、東端ではかなりの高石垣となり、見どころのひとつです。
この城、石垣を愉しむ観光客(愛好家)がとても多いですね。随所に、石の傍に佇んで見入る人の姿が目に付きます。
この城、石垣を愉しむ観光客(愛好家)がとても多いですね。随所に、石の傍に佇んで見入る人の姿が目に付きます。
5.歴史文化館
坂を降り切った所は三ノ丸で、現在は運動公園になっていますが、そこから土塁の水堀を隔てた“重臣屋敷”の跡に歴史文化館があるので、入って見ます。
一階は“民俗ゾーン”で、岩手の夏を彩るチャグチャグ馬コ・さんさ踊りの展示で和めます。
二階が盛岡城と南部家の展示になり、ここは有料ですが、城の時系列での発展形態や数々の南部家の宝物が見られます。
坂を降り切った所は三ノ丸で、現在は運動公園になっていますが、そこから土塁の水堀を隔てた“重臣屋敷”の跡に歴史文化館があるので、入って見ます。
一階は“民俗ゾーン”で、岩手の夏を彩るチャグチャグ馬コ・さんさ踊りの展示で和めます。
二階が盛岡城と南部家の展示になり、ここは有料ですが、城の時系列での発展形態や数々の南部家の宝物が見られます。

自然の岩を組み込んだ二ノ丸の石垣
6.三ノ丸へ
再び堀を渡って、桜山神社の横から三ノ丸へ入って行きます。
再び堀を渡って、桜山神社の横から三ノ丸へ入って行きます。
ここは植栽のとても美しい場所で、二ノ丸の石垣をバックに、木々の新緑と満開のツツジに眼を奪われます。
また、盛岡城が岩山だった証拠の、自然の岩盤が石垣に巧妙に取り込まれているのも見れます。
桜山神社の御神体が“烏帽子岩”と呼ばれる巨岩で、築城時に出てきたものを平癒安全を祈念して祀っているそうです。
また、盛岡城が岩山だった証拠の、自然の岩盤が石垣に巧妙に取り込まれているのも見れます。
桜山神社の御神体が“烏帽子岩”と呼ばれる巨岩で、築城時に出てきたものを平癒安全を祈念して祀っているそうです。

いつも盛岡の街を見守る岩手山
7.下城
三ノ丸を鳩御門から出て、二ノ丸の高石垣沿いに駅に向かいます。
三ノ丸を鳩御門から出て、二ノ丸の高石垣沿いに駅に向かいます。
この城は西からの攻撃を想定している様で(仮想敵は伊達?)、複雑な折れを持つ高い石垣が続きます。
少し気になったのは、角石を算木積みしている部分が悉く下膨れ状に孕み出している事で、長年の雨の浸食に耐えた結果なのか、震災で揺すぶられた故なのか…。
もし再度大震災があれば、一気に崩落してしまう危険があります。
くれぐれも、揺れに耐える為の詰め石を安易に抜かない様に祈るばかりです。
少し気になったのは、角石を算木積みしている部分が悉く下膨れ状に孕み出している事で、長年の雨の浸食に耐えた結果なのか、震災で揺すぶられた故なのか…。
もし再度大震災があれば、一気に崩落してしまう危険があります。
くれぐれも、揺れに耐える為の詰め石を安易に抜かない様に祈るばかりです。