真田昌幸の足跡 第二回
     群馬県  名胡桃城                登城日 2014.04.12
 
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 所在地       群馬県利根郡みなかみ町下津
 城郭構造     連郭式平城
 通称      
 築城年      1492年(明応元年) 室町時代
 築城主      沼田氏
 主な改修者    真田昌幸
 主な城主      真田氏(鈴木重則)
 廃城年       江戸初期
 遺構         曲輪、土塁ほか
 文化財指定 
 
 岩櫃から山越えで月夜野に来ました。
 名胡桃(なぐるみ)城は沼田の利根川西岸にあり、沼田氏により沼田城の支城として築城されました。河岸段丘に構築された典型的な崖端城です。
 この小城が、現在も歴史ファンの中でメジャーな存在なのは、その後に起こった大事件のきっかけになった事によります。
 
 戦国後期、この地方は武田vs北条のせめぎ合う戦場であり、武田方の指揮官は真田昌幸でした。 
昌幸は武田勝頼の命で名胡桃城を大改修し、沼田攻略の拠点にして戦いました。
 武田氏滅亡後、独立大名となった真田氏は、沼田地方をめぐって北条氏と独力で争う事になりますが、名胡桃城は支城としての機能を発揮し、再三攻め込んで来た北条軍を撃退します。
 
 秀吉の治世になってもこの紛争は続き、秀吉は『関東惣無事令』を発して調停を図ります。
 その内容は沼田地方の大半(利根川東岸)を北条領とし、利根川西岸は真田領として、喪失地は徳川領より与える…というもので、双方に受け容れ難いものでした。
 名胡桃城には昌幸の重臣の鈴木重則が城代として入り、沼田城には北条氏邦の重臣の猪俣邦憲が入って睨み合いますが、邦憲は重則が留守にした隙を突いて名胡桃城を奪取してしまいます。
 責めの重さを感じた重則は自刃して果て、この事態を重く見た秀吉は『天下安寧に仇なす不届き千万な行為である!』と断罪し“北条征伐”を発令します。

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北条氏の没落後、沼田は真田領として安堵され、真田信之の領地となります。
名胡桃城も時を置かずして廃城になりますが、北条滅亡の原因として名胡桃城の名は今も語り継がれています。
胡桃城縄張り図
大手は平城でも、本郭周りは山城です
 
 
名胡桃城を歩く
1.アプローチ

 岩櫃城からの移動です。
R245を東進し、高山村の中山交差点で左折し、月夜野を目指します。
 地図上では峠道になっていたのですが、現在はトンネルが開通し、30分あまりでR17月夜野バイパスの交差点に出ます。
 信号待ちで初めて気付いたのですが、目の前がもう名胡桃城址ではありませんか…。 
城域に入り、中心部に着くまで気付きませんでした(汗)
交差点を直進する形で駐車場に入って行きます。
 
 
2.般若郭
 駐車場は“般若郭”という、北の備えの郭を利用していて、30台程度は停められる広さですが、土曜日でもあり、半分は埋まっています。
 クルマを降りて、周囲を歩いて見ますが、利根川に向かった“鏃形”の郭で、天然の谷を利用した空堀は規模が大きく、谷筋に沿ってだんだん深くなり、先端部は20mくらいの段差になっています。
 
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般若郭から見る本郭
 
 郭から見渡すと、南に谷の空堀を隔てて主郭部が隣接し、地表面の高さはほぼ同じで、空堀で仕切った郭が連なっているのが見えます。
 
 
3.案内所
 主郭部に移る前に、国道端にある案内所に入りパンフを貰います。
喫茶店風の建物ですが、中に入ると無料休憩所と資料展示が若干あります。
パンフも10種程度が並べて積んであり、欲しいモノを自由に貰える様になってて、これは一番有り難いタイプの対応で、嬉しい事です。
 
 すぐに奥から係のお姉さん(元)が出てきて、『いらっしゃいませ、お茶いかがですか?』と湯呑を渡してくれます。
『初めてですか?』との問いに、岩櫃から流れてきて、真田昌幸の足跡を追ってるストーカーですと伝えると、その種の話で会話に付き合ってくれます。
 名胡桃城は“秀吉と昌幸の偽装落城”という見解で一致しました。
やけに詳しいな…と思いながら、主郭部に向かったのですが、このお姉さん(元)は城のガイドの様で、素人には解説しながら一緒に回ってくれる様です。
 
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3.主郭部
 ガイドさんに敬遠された城オタは独りで自由に回りますw
国道バイパスは三ノ丸郭の馬出しと、外郭を隔てる空堀の上を走っている様で、道路工事で遺構は失われています。
 
 道端から続く平地がもう三ノ丸内なんですね。
地面はほぼフラットで、周囲には土塁も無く、見るべきモノはありません。
 端っこには個人の墓地があって、新しい墓石もありますから、近年まで個人の宅地で使われてたんでしょうね。 
“父祖の墳墓の地”ですから、引っ越せませんよねw
 
 三ノ丸の次は土橋を渡って二ノ丸になります。
この間は空堀ですが、今は浅くなってて2m程度しかありません。
 板塀で仕切ってたのか、土塁遺構もありません。
この二ノ丸が一番広い郭で、発掘調査では大きな建物跡も発見されているから、ここが御殿機能だったかも知れませんね。
 
 二ノ丸の次が本丸になり、こちらも土橋で繋がりますが、こちらの空堀は若干深く、両端は竪堀となって谷に落ちて行く様がよく判ります。
 当時はたぶん薬研堀ではなかったかと勝手に想像します。
 
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本丸にはためく六連銭旗
 
 本丸には名胡桃城の石碑が建ち、六連銭の旗が翻っています。 
ここまで来ると、両側の谷の深さも半端なくて、谷との比高差は50mに及ぶそうで、完全に“山城”の景観ですね。
 以前は杉林や竹林に覆われていましたが、今は綺麗に切り払われ、険しさがハッキリ判ります。
 切り取られた竹が斜面に“坂茂木”の様に倒されていて、より当時の姿を見る様でした。
 
 ここまで来て気付くのは、三ノ丸入口の“馬出し”の石標があったものの、その後の遺構には“逆襲に転じる構造”が無い事です。
 三ノ丸に攻め込まれたら、攻撃に耐えて救援を待つタイプの城なのでしょうか…。
 
 
4.笹曲輪
 城の突端は5mほど下がって、“笹曲輪”という小郭が造られています。 ここは利根川の方向からの攻撃に対する主要な防御遺構と思われますが、低くなる分、対岸の敵の狙撃を受けるのか、南側には土塁がしつらえてあります。
 先端のさらに下がった所には小さな“物見台”も有り、その先は河原へ向けて急坂で落ちています。
 
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孤立する笹曲輪
  
 
 結局、この方向にも搦め手の様な退路が無いので、囲まれたら逃げ道がありません。
 攻め側も、それでは城兵が“窮鼠”になって被害が大きくなるので、何処かを開けたと思うし、それは河原だろうと思っていましたが、此処は難しいでしょうね。

 

 
5.下城
 元来た道を駐車場に向けて戻って行くと、最前のガイドさんが案内をして行くのにすれ違いました。
100名城でもない城で、この対応はあまり類を見ません。
草木の処理などの作業も万全で、強固な城の姿が素人目にも見やすくなっています。
 大変有り難い事ではありますが、持ち出しも多くなるので、将来性と継続性が心配です。
 
 城址としては今後は外郭方面も整備して貰えたら…と思いますが、なにか歴史の転換点に立ち会えた様な満足感で下城します。
 
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いつも睨んでいた沼田方面
  
 
PS この後に寄った沼田城は花見客で近寄れませんでした。