岩櫃城の続きです
 
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“中城”という名の馬出し?
 
 
 虎口跡らしき場所を過ぎると森が途切れて、明るい広場に出ます。
“中城”という所ですが、平地ではなく緩斜面になっています。
 こんな斜面に建物は建たないし、兵を集めて下知を下す場所かいな? という感じです。
 
 中城の左端に沿ってまた竪堀があり、階段が作ってあるので登って行きます。 
登り切って左に折れると、見晴らし台の様な小広場があり、また虎口になって一段登ると“二ノ丸”に着きました。 
 ここもやや坂になった斜面で、さほど広くはないので、“武者溜り”かな?
そして背後に壁の様に聳えてるのは、“本丸土塁”で、優に7mといった高さ。 
これを登るといよいよ本丸です。
 
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中城脇の竪堀兼通路 “出ませんように…”
  
 
3.本丸曲輪
 本丸に登ると縦長の削平地で、今までの遺構と造作のレベルが違います。 たぶんここは建物で一杯だったんでしょうね。
郭は三段に分かれてて、登ってきた壇には休憩できる東屋が有ります。次の一段高いのが“御殿跡”と明示されていて、岩櫃城の石碑が建っています。
 
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 ここでお昼にしましたが、眼下に吾妻街道、その奥には榛名山、東には嵩山方面が見渡せる絶好の立地です。 
さらに奥に行くと、一段下がった一番広いスペースがあります。
 ここはまだ杉林に覆われていますが、庭石と思われる様な巨石もあり、庭園風な造りになった風雅の場所だったのかも知れませんね。
 
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街道を見下ろす
 
 
4.岩櫃山へ
 本丸の裏にも虎口があり、そこから登山道になっています。
“天然の嶮”の岩櫃山ですから、ここを最後の拠り所にする筈なので、“詰め城”を求めて少し登ってみます。
 
 急な登りになりますが、期待は裏切られず、行く手には防御のための削平地が点々と現れます。 
やや大きな削平地には“水溜め”と思われる穴の跡もあり、少数になっても“もうひと戦できる”構えが備わっています。
 15分ほど登って、尾根の平坦部に着きましたが、ここからは急な岩場となるので、装備上ここで断念。 
 
 改めて高所から本丸を見下ろしてみると、周囲の斜面にも削平地の段々が延々と認められ、この城の計り知れない規模を感じます。
 
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散在する巨岩は有事には櫓の役割を果たせそう
  
 
5.殿邸跡
 一旦本丸に降り、今度は南側の中腹にある“殿邸跡”を目指します。 
ここは昌幸が勝頼を迎える為に御殿を造営した…という場所らしいです。
 中城の下の“見晴らし台”から西に少し下がると有りますが、現在は二面の果樹園になってて、詳しくは見れません。 
ただ、かなりの傾斜があり、造成途上で不要となり、作事までは行かなかったのでは…と思います。
 
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“殿邸跡”と伝わるが… 
 
 ここから中腹を横移動で駐車場に戻ります。
笹のブッシュに難渋しますが、“犬走り”状の通路が続いています。
 途中からは杉林になり、下側の見通しが効き出しますが、麓まで延々と続く“段々畑”にはただ唖然とするばかり…。

一体、何人の城兵が籠り、自活できるのか…、想像もできない規模ですね。
 
 
6.天狗の丸
 駐車場に戻ったら、城と反対側の至近距離の丘に“天狗の丸”の標識があったので登ってみます。
 名前は知識として有って、岩櫃城の出丸もしくは曲輪のひとつと思っていたのですが、登ってみると一面の耕作地で、南向きの雛段が広がり、最後は崖になってストンと落ちています。
この出丸ひとつでも戦国の城としては大きい方ではないかな。

 

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“天狗の丸”跡
出丸でこの広さ!。むこうの杉林で崖になっています
  
 
7.下城
 期待を裏切らないどころか、遥かに上回る規模の大城郭を見て、情報過多の膨満に似た気持ちで城を後にします。
 今回見たのは、主郭と防御遺構の一部です。天狗の丸から谷を挟んで東には“柳沢城”という出城があり、それを起点に岩櫃山東麓の尾根がグルリと総構えだった様で、外周は5㎞ほどにも及びます。
 
 昌幸はここで万余の軍を運用するつもりだったのか、中の盆地は普段の生活と農耕の場だった様です(現在は平沢集落)。
 山城では最大規模ですが、そうした遺構も見ない事には、まだまだ昌幸の思考に近付く事は出来ません。 
ある意味、昌幸が最も頼りとし、長く関わった城です。
 
近いうちに、再訪を期して今回は下城します。
 
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 原町市街にある城を模した温泉 気合い入ってますw