真田昌幸の足跡 第一回
         長野県  砥石城               登城日 2013.11.12
 
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 所在地       長野県上田市上野
 城郭構造      山城
 通称         戸石城
 築城年       室町時代
 築城主       真田氏
 主な改修者  
 主な城主       村上義清、真田幸隆、真田昌幸
 廃城年        元亀元年(1570年)
 遺構          郭、堀切、石垣
 文化財指定     なし
 
 
  武田信玄が村上義清に大敗した事で有名な砥石城です。
真田氏が小県郡を掌握する過程で居城とした時期もあり、規模・質ともに優れた城で、昌幸の足跡も当然刻まれている筈です。
 
 砥石城はもともと真田氏が築いた支城らしく、位置的に真田郷の南端にあたるので、完全支配し終えた後とすれば、真田幸隆の築城と考えられます。
 1541年、海野平の戦で真田氏を含む海野一族が信濃から駆逐されると、村上義清の城となりました。
 義清は砥石城を大きく改修し、尾根に連なる峰々に支城を造りました。砥石城はその複合城塞の名称の様です。

 1550年、砥石城には武田軍7千が攻め寄せます。
守る城兵5百は堅城の利を生かして果敢に戦い、千名もの大損害を出して退却させます。 
これが“砥石崩れ”と呼ばれる信玄の生涯最大の敗戦になり、砥石城の名は世に知られます。
 
 1552年、武田に仕官していた真田幸隆が砥石城主を調略し、城は武田の物となります。 
これで村上勢は小県郡から締め出され、幸隆は念願の旧領復帰を果たします。
その後は廃城まで真田氏の持ち城でしたが、誰の居城であったかどうかはハッキリしていません。

  1600年、徳川秀忠との二次上田合戦では真田信繁が守り、それを兄の真田信之が攻めるという過酷な場面がありますが、この時は双方の兵が肉親同士の戦いなので、阿吽の呼吸で形式的に刃を合わせた後、信繁方が上田城に退去し信之が奪取する形で体面を保ちます。
戦後まもなく廃城となりました。
 
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登城口にある注意書き 「大袈裟な…」と思って登り始めたのですが
  
 
 
砥石城を歩く
1.アプローチ
 砥石城は上信越道“上田・菅平IC”の至近にあります。
R144を南下し、伊勢山の交差点で右折ですが、ここも“六連銭”の旗印が出ているので、判りやすいです。 
 クルマで登り詰めると駐車場・トイレ・自販機があり、登城前の準備ができます。(親切ですね)
 ここは砥石城の南の郭“米山城”の下になり、この選択は南回りで順次砥石城~本城~枡形城と辿る事になります。
 
 
2.米山城
 登山靴に替え、リュックとストックを出して登り始めます。
登山口に『真田幸村が居た名城 なめんなよ!』の石標があり、大袈裟な…と思いましたが、いきなり最初から尾根登山です。
 10分ほどで分岐になり、米山城へは左に折れて登ります。
 
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急斜面は備え付けのロープで登っていく
 
 
 尾根の峯には違いないのですが、米山城は単独での立ち上がりが高く、まだ結構あります。
最後は這って登るくらいの斜面になり、お助けのロープがあるので、それを頼りに登ります。
 頂上=城址に着きました。 城というより曲輪の広さですね。
南ダレで三段ほどの郭があり、上田市街がきれいに見えます。
村上義清の顕彰碑があるのはビックリですw
 
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村上義清の碑
 
 
3.砥石城
 また分岐まで滑る様に降りて、今度は砥石城に向かいます。 
この区間がこの日最大の難所で、丸太調コンクリで止めた急な階段が続きます。
10mほど上がってはひと息入れて登りますが、ほんとに延々と続きます。 こっちからの攻城は絶対に不可能です。
 
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永遠に続きそうな登り坂
 
 頂上に着きました。 
米山城より狭い“小郭”ですが、上田市街のみならず上田盆地が見渡せます。 米山城も眼下にあって、指揮・作戦の場としてこれ以上ない場所ですね。
複合城郭を総合してなんで“砥石城”なのか判りました。
 
ベンチに軽装で散歩中のお年寄りが休んで居たので、『険しいお城ですねぇ』と声を掛けたら、笑いながら『そっちから登る人間はおらんよ』と言われました。そういう事か…。
 
 
4.本城
 ここから本城へは一旦ドンと下がって、あとは緩やかに尾根を登っていきます。 
尾根幅がだんだん広くなり、やがて土塁の郭となり、郭が梯格式に積み重なって本城を形成しています。
 個々の郭がかなり広く、しかも平坦だから、当時は城主の屋敷があったと思われますが、発掘調査ではさしたる遺構は無かった様です。(それが真田拠点の否定論になってます)
 
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砥石城からの上田平の眺め  手前の山上が米山城
  
 
5.枡形城
 本城の最上段からさらに尾根を北上すると、枡形城の郭があります。
ここは見張所に近い小郭で、真田郷が一望できます。 
真田氏の拠点がすべて見渡せ、上田平の敵の動きはここを経由して、逐一伝えられていた事でしょう。
 
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 枡形城から見える真田郷
左上の手前の小山が松尾城で、その奥が松尾古城
  
 
6.下城
  本城に一旦戻って、東に下る道を降りて行きます。
こちらが大手道という事で、緩やかでやや広い道で下って行きます。
途中の要所要所には土塁らしき遺構も見受けられ、やはり大手なんだなと感じます。
こうゆう道が無いと、山城というのは補給ができないから成立しません。
 
 歩いたエリアを総合したら、かなり広い城であるのが判ります。籠る兵力は2~3千くらい?という感じがします。
 “砥石崩れ”の際の村上勢が5百という事なので、真田が取戻してから拡張したのは明らかですね。
 
 大手道は下る途中の中腹で“古街道”に合流します。
“松代街道”という道で、上田から新地蔵峠を越え、善光寺平の松代に至ります。
 上田から松代に転封になった真田家にとって重要な道で、佐久間象山も勉学の為に通ったと伝わります。
 街道に合流して間もなく、麓の伊勢山集落になりますが、ここは砥石城下だそうです。 
城下があったという事は、拠点の城の時代があったという事でしょうね。

 

 
 
7.まとめ
 真田郷を後にして、家路につきます。
正直、日帰りにはハード過ぎましたw 今後行かれる方はも少し余裕を持ったスケジュールが良いでしょう。
 いろいろ見て廻りましたが、昌幸の原点と言うより幸隆が苦難の中で這い上がった跡が偲ばれる旅でした。
 
 前述の様に、幸隆の意志を継いだのは信綱であり、昌幸が直接行動を共にし、薫陶を受けた場面はそう多くないと思います。
 その割には昌幸が父や兄を想う気持ちは菩提寺のロケーション等に顕れており、昌幸にとっても“真田の郷”が原点だった事は間違いない気がしました。
九度山で亡くなる間際に瞼に浮かんだ風景ですね。