真田昌幸の足跡 第一回
               長野県  松尾古城           登城日 2013.11.12
 
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 所在地       長野県上田市真田町長字日向
 城郭構造      山城
 通称         松尾城、角間の城
 築城年       不明
 築城主       真田氏?
 主な改修者  
 主な城主       真田氏?
 廃城年        不明
 遺構          石塁、土塁
 文化財指定     なし
 
 
  次はもうひとつの松尾城、松尾古城に行って見ます。
 
私的に、この城が真田氏発祥の城だと思うのです。
理由は?…『なんとなく』ですがw
 
松尾古城の記録は多くありません。 
真田郷の神川流域最深部、もう鳥居峠に近い場所に戦国期の城塞跡があり、その麓に同時期の居館跡がある。
 そして真田氏の菩提寺は幸隆によりこの近くに置かれた…という客観的物証から仮説で見て行きます。
 
 真田氏が真田郷から発した氏族とすれば、その後の居城と言われる洗馬城、内小屋城、松尾城、砥石城…と、みな上流から下流へと勢力拡大した形になり、歴史にも符号します。
 
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北東の山間にある松尾古城
  
 
1.アプローチ
 松尾城からは、元の県道に戻り、そのまま川上の鳥居峠方面へ走ります。 R144へ合流する手前で右から角間川が合流しますが、その合流地点に松尾古城はあります。
その前に、道筋の右奥に真田氏の当時の菩提寺“長谷寺”があるので、一言挨拶させてもらいます。
 
 
2.長谷寺
 “はせでら”ではなく“ちょうこくじ”と読みます。
1547年、上野から戻った幸隆が上野の曹洞宗の僧を招聘して開山した菩提寺です。
 後年、信之が松代に転封になった際には、僧も同行させて新たに松代に“長国寺”(ちょうこくじ)を開山しますが、長谷寺も末寺として残されました。 
 
 時代は前後しますが、昌幸が九度山で死去した際には、信之の意向で荼毘に付された遺骨を家臣が上田に持ち帰り、長谷寺に密かに埋葬したそうです。(罪人:昌幸の葬儀は幕府より許可されなかった)
 県道を右に折れて、緩い坂を真っすぐ登って行くと、長谷寺はありました。
駐車場にクルマを停めて、案内の看板通りに登って行きます。
 かなり立派な寺で、墓石も多いのですが、真田家菩提寺だけあって、昌幸の墓には楽にたどり着けます。
 
 本堂裏の目立つ場所に墓石はあり、中央に幸隆公、左に正妻:恭雲院、右に昌幸公の宝篋印塔が建っています。
 誰が始めたか、真田家の墓参には5円玉を6枚持参し、2列に並べて供えて手を合わせます。
もちろん、持って来ましたよw
 
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右が真田昌幸の墓石 この左隣には信繁(幸村)の新しい墓石もある
  
 
3.日向畑遺跡
 無事墓参を終え、いよいよ松尾古城に向かいます。
県道の角間川が合流する三叉路を右折します(角間温泉の看板があり判りやすい)。
 少し入った左側に『日向畑遺跡』の立札があるので、空き地を探してクルマを停めます。
この遺跡は室町期~戦国期の墓石が多量にある物で、横に古くから祀られている社があって、お堂には“幸隆公”と言い伝えられる童形の木像が安置されています。
 また隣には“屋敷地”と思われる平地があり、『真田氏発祥の地』に繫がっています。
小豪族の居館として、ロケーションは適合しますね。
 
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 日向畑遺跡 初期の真田氏の墓と言われる
  
 
4.登城
 さて、その詰め城の“松尾古城”に登って行きます。
この城は幸隆が青年期の城と思われますから、昌幸とは直接の関わりは無く、“幸隆の実像に迫るる”感じですね。
 遺跡の裏山の尾根沿いに城址はあるのですが、裏山といっても、物凄い急角度で聳えています。
 
 この城を『真田ファンの聖地』と言う人も居ますが、とても峻嶮な山上で、余程好きな人でなければ登らないから…でしょうねw
 登城路はまず遺跡から角間川沿いの山道を水平に西へ歩き、山の尾根に出ます。 
そこからはただひたすら尾根登山ですね。
 
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嶮しい登城路 単独での登城はなるべく避けたい
 
  尾根といってもかなりの痩せ尾根で、両側は70°くらいのイメージで落ちて行きます。
 尾根には道など無く、基本は岩山だから、松の落ち葉で滑る岩場をよじ登って行きます。
 そうして30分も登れば、石積みの壇と祠が見えて来ます。
そこで初めてこの道で良かった事が判るのですw
 そこからは、防塁に自然石を積んだ石垣が次々に現れ、やや広い削平地になったと思えば、四方を石垣で囲まれた本郭に到着します。
 
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本郭の石垣から見る斜面 物凄い角度で落ちており、武装して登るのは難しい
 
  
 決して大きな規模ではありませんが、これまでの道のりを想えば予想外の遺構の出現に正直感動を覚えます。
もちろん貸切りです。
 感慨に浸りながら、周囲を見て廻りますが、この上には尾根を遮断した堀切があり、さらに登り続けると烽火台があるそうです。
 見下ろす斜面はさらに角度を増してる感じで、樹木に遮られてるけど、ここからは下の居館や領地の様子が一望できた事でしょうね。
 いろんな想いが頭をめぐり、何をするでもなく小一時間ほど滞在しました。
 
 
5.下城
 遭難せぬ様に、もと来た道を慎重に降りて行きます。
松尾古城に来てみて、驚きや感動もあるのですが、戦国の弱小豪族の生き様を見た様で、何とも言えないやるせない気持ちに包まれています。
 松尾古城は兵を囲って機を見て討って出る、“戦闘に使う城”ではなく、ただただ難を避ける“避難所”の様です。
 
 この城が実際に機能していた状況を思い描くと…。
着の身着のままで子供を背負い、老人の手をひいて避難する一族郎党の姿が浮かびます。
その数は50人程度でしょうか。
 本郭に着いた面々は領地を見下ろします。 
下では荒くれ野武士達が駆け回っていて、逃げ遅れた数人の遺体も見えます。
 目ぼしい家財や米穀を奪い、やっと実った稲を刈取り、牛馬を奪って、略奪の限りを尽くして去ろうとしています。
去り際に家々には火が放たれました…。 

 穀物の生産が安定しない時代、人は生きるために奪うのが当たり前の時代がありました。
 この光景を見ている面々は生命が助かった事に安堵すると同時に、生きる為に、明日はより弱い村を襲うしかありません。
 そうして、武力を蓄えて強い者に寄り添って生き残って来たのが戦国大名です。
 
 昌幸は大勢力同士の決戦の中で采配で生き残りに賭け、幸隆はそれ以前のより過酷な暗黒史の中で指導力を発揮し、生き残って領民を守りました。
文字通り“修羅の道に落ちようとも…”です。 
だからこそ地元で神として永く崇められているんだと思います。

 

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郭に転がる丸い河原石
武器に熟れてない人も籠もる城では大きな武器になり、これが有ると城の性格がよく判る