再来年の大河ドラマが『真田丸』に決まった…という事で、また真田ブームが起こりそうですね。
題名からして幸村(信繁)主体になりそうですが、私は少し前からこの日を予感して(…ウソ!) 信繁の父:真田昌幸に興味を持って追っ掛けを始めていました。
キッカケは“歴史街道”に連載中の“我、六道を懼れずby海道龍一郎さん”です。
キッカケは“歴史街道”に連載中の“我、六道を懼れずby海道龍一郎さん”です。
戦いに明け暮れた戦国時代に名将は数多いますが、知略・謀略・用兵・戦術において真田昌幸の右に出る者は居ないと思われます。
北信濃の小豪族の基盤しかなくて大大名と互角に渡り合い、数倍する敵に臆する事なく、むしろ不利を愉むかの様に、自在の用兵で相手を手玉に取り、勝利を勝ち取って行った武将。
北信濃の小豪族の基盤しかなくて大大名と互角に渡り合い、数倍する敵に臆する事なく、むしろ不利を愉むかの様に、自在の用兵で相手を手玉に取り、勝利を勝ち取って行った武将。
その背景には何か理由がある筈です。
しばらく、真田昌幸の足跡を辿って、その秘密に迫ってみたいと思います。
しばらく、真田昌幸の足跡を辿って、その秘密に迫ってみたいと思います。
真田昌幸は信濃の国小県郡真田郷の豪族:真田幸隆の三男で、真田郷で生まれ(生まれは上野かも)、7歳で武田信玄の近習に出仕して、信玄の旗本として成長した後に、武田の支族:武藤家を継いで武藤喜兵衛を名乗ります。
設楽ヶ原の戦いで兄:信綱が戦死すると武田勝頼の命で真田家当主に復帰し、真田昌幸を名乗ります。
昌幸は真田郷を地盤に上野国へと侵攻し、権謀術数で北上野を手中にしますが、武田家が滅亡してからは独立大名として周囲の大大名と渡り合い、領地を守り切ります。
昌幸は真田郷を地盤に上野国へと侵攻し、権謀術数で北上野を手中にしますが、武田家が滅亡してからは独立大名として周囲の大大名と渡り合い、領地を守り切ります。
関ケ原の折には嫡男:信之を徳川方に従わせ、自身は次男:信繁を連れて石田三成に付きます。
敢えて“石田三成”としたのは“妻同士が姉妹”という縁故で、決定要素としてデカイと思います。
昌幸&信繁自体は、徳川秀忠との局地戦には勝利しますが、関ケ原の本戦は徳川方の勝利に終わります。
敢えて“石田三成”としたのは“妻同士が姉妹”という縁故で、決定要素としてデカイと思います。
昌幸&信繁自体は、徳川秀忠との局地戦には勝利しますが、関ケ原の本戦は徳川方の勝利に終わります。
昌幸は改易されて信繁と共に高野山(九度山)に流罪となり、十年間赦免される事なく九度山で生涯を終えました。
幽閉生活の間、昌幸は来るべき徳川との一戦の策を練り続け、信繁に授ける日々だったと言われます。
幽閉生活の間、昌幸は来るべき徳川との一戦の策を練り続け、信繁に授ける日々だったと言われます。
二年後、大坂の役が起こり、信繁は大阪城に入ります。
開戦当初、昌幸の作戦は戦いを知らない城将には理解されず、消極策に終始してしまいますが、信繁自身は直伝の戦術で奮戦し、家康をあと一歩の所まで追い詰めます。
この時から『真田、日本一の武士』であり続けています。
もしも昌幸が健在で、大坂で指揮を執っていたら…歴史は違っていたかも知れません。
開戦当初、昌幸の作戦は戦いを知らない城将には理解されず、消極策に終始してしまいますが、信繁自身は直伝の戦術で奮戦し、家康をあと一歩の所まで追い詰めます。
この時から『真田、日本一の武士』であり続けています。
もしも昌幸が健在で、大坂で指揮を執っていたら…歴史は違っていたかも知れません。
一回目は信州真田郷を訪れ、昌幸のルーツを探ってみました。
真田昌幸の足跡 第一回
長野県 松尾城(真田本城) 登城日 2013.11.12
長野県 松尾城(真田本城) 登城日 2013.11.12
所在地 長野県上田市真田町十林寺
城郭構造 連郭式山城
通称 真田本城、真田山城
築城年 天文年間
築城主 真田幸隆
主な改修者
主な城主 真田氏
廃城年 1585年
遺構 曲輪、土塁、堀切
文化財指定 なし
城郭構造 連郭式山城
通称 真田本城、真田山城
築城年 天文年間
築城主 真田幸隆
主な改修者
主な城主 真田氏
廃城年 1585年
遺構 曲輪、土塁、堀切
文化財指定 なし
資料収集の拠点“真田氏歴史館” “真田氏館跡”に隣接してある
最初に向かったのは戦国末期、真田昌幸が上田城を築くまでの真田氏の居城であった…と言われる松尾城です。
この点についてはハッキリした定説がなく、真田郷には幾つかの城館があって、それらの中に突出した規模の物が無い事と、上田築城までの昌幸の足取りが、武田家と行動を共にし、府中在住が中心だった事、また、武田家中での担当が“上州攻略”であり、岩櫃城に詰める事が多かった事が絡み、余計にややこしくなります。
この点についてはハッキリした定説がなく、真田郷には幾つかの城館があって、それらの中に突出した規模の物が無い事と、上田築城までの昌幸の足取りが、武田家と行動を共にし、府中在住が中心だった事、また、武田家中での担当が“上州攻略”であり、岩櫃城に詰める事が多かった事が絡み、余計にややこしくなります。
松尾城は天文年間の築城で、真田幸隆による…とされます。
幸隆が砥石城を落として、本領復帰後の築城という事になりますが、では、箕輪城に逃れる前は何処だったのか?という疑問もあります。
ここは真田郷復帰後…という設定で話を進めます。
ここは真田郷復帰後…という設定で話を進めます。
近くに“真田館跡”という居館跡があるので、そこに住んで松尾城を詰め城としたかも知れません。
居館跡はほぼ平地にあって、“躑躅ヶ崎館”を彷彿とする構えですが、復帰当初にそんな“横綱相撲”的な構えをするものか? との疑問も沸きます。
ともかく、有事には松尾城が指令所となり、真田郷を取り巻く支城群が連携して機能して、敵を追い払う…という戦略が真田の兵法だった可能性は大きい気がします。
松尾城は上田築城をもって廃城になった様ですが、詳細な記録は残っていません。
ともかく、有事には松尾城が指令所となり、真田郷を取り巻く支城群が連携して機能して、敵を追い払う…という戦略が真田の兵法だった可能性は大きい気がします。
松尾城は上田築城をもって廃城になった様ですが、詳細な記録は残っていません。
真田郷にある真田の本城・支城群
松尾古城から始まり、順次南に勢力を拡げて行ったものと思われる
松尾城を歩く
1.アプローチ
真田郷は上信越道“上田・菅平IC”で降りてR144を北進した、山麓のやや緩傾斜のある地域です。
1.アプローチ
真田郷は上信越道“上田・菅平IC”で降りてR144を北進した、山麓のやや緩傾斜のある地域です。
古くから“官牧”が置かれて、軍馬の産地でした。
真田郷を訪ねると要所の史跡には“六連銭”の旗印が出ているので、助かります。
真田郷を訪ねると要所の史跡には“六連銭”の旗印が出ているので、助かります。
上田合戦の水攻めで有名な“神川”を渡ると、右側に『真田氏発祥の郷』の大きな看板があり、念のために寄って見ます。
小さな公園の様になっていて、真田三代+幸村のレリーフが有りますが、特にこの場所が屋敷跡とかでは無いようです。
小さな公園の様になっていて、真田三代+幸村のレリーフが有りますが、特にこの場所が屋敷跡とかでは無いようです。
大きな蕎麦屋の店先なので、宣伝の一貫なのかも知れません。
ここを目印に国道を右折して、道なりに進んで行くと、自然と“真田氏歴史館”に着きます。
真田氏の歴史を伝える…という程の資料はありませんが、真田郷と支城群に関する資料は揃いますから、必見です。
歴史館の隣が“真田氏館跡”で、松尾城も至近のため、まずここを起点に巡ってみる事にします。
真田氏館跡 大手門付近 土塁構造で堀はない
2.真田氏館跡
館の規模は100m×200mくらいの南北に長い土地を土塁で仕切り、三つの郭に分かれています。
中世の居館の様式を備えた館で、防御力は期待できるものではありません。
案内板によると、幸隆が家督を信綱に譲る頃に建てた…とありますから、昌幸が幼少期を過ごした場所ではなさそうです。
ただ、母:恭雲院が住み、武田家滅亡に際して、昌幸が戻ってきた場所である可能性は一番高いですね。
館の規模は100m×200mくらいの南北に長い土地を土塁で仕切り、三つの郭に分かれています。
中世の居館の様式を備えた館で、防御力は期待できるものではありません。
案内板によると、幸隆が家督を信綱に譲る頃に建てた…とありますから、昌幸が幼少期を過ごした場所ではなさそうです。
ただ、母:恭雲院が住み、武田家滅亡に際して、昌幸が戻ってきた場所である可能性は一番高いですね。
館跡からは砥石城が本当に近い 大声を出せば聞こえそう
3.松尾城へ
詰め城の松尾城へは、館跡の北の道を鳥居峠方面に少し走ります。
ここも六連銭の幟旗が出るので、右折して細い道を登って行きます。
詰め城の松尾城へは、館跡の北の道を鳥居峠方面に少し走ります。
ここも六連銭の幟旗が出るので、右折して細い道を登って行きます。
数軒ある集落の中を左に曲がりながら登って行くと、“城址的雰囲気”の公園が現れます。
上田市の史跡に指定されて整備されており、余分な樹木が無くて、形状がよく判ります。
駐車場も5~6台分はあり、到着時には3台停まってて、その後も入れ替わりながら絶える事はありませんでした。
駐車場も5~6台分はあり、到着時には3台停まってて、その後も入れ替わりながら絶える事はありませんでした。
松尾城本郭あたり 用地は決して広くない
4.松尾城散策
歴史館でGETしたパンフを見ながら歩いて見ます。
東の“烏帽子岳”から下がってきた尾根が、北西に大きくせり出した箇所に松尾城はあります。
主郭は細長い尾根を空堀で三つに区切り、用途に応じて使った様ですが、御殿が造営できる程の広さは無く、強固な砦レベルの縄張りです。
東の大手側に広い郭はありますが、緩傾斜地で建物の造営には向きません。
歴史館でGETしたパンフを見ながら歩いて見ます。
東の“烏帽子岳”から下がってきた尾根が、北西に大きくせり出した箇所に松尾城はあります。
主郭は細長い尾根を空堀で三つに区切り、用途に応じて使った様ですが、御殿が造営できる程の広さは無く、強固な砦レベルの縄張りです。
東の大手側に広い郭はありますが、緩傾斜地で建物の造営には向きません。
最後は尾根を空堀で遮断して終わっています。
広い郭の南は、緩い斜面になっていて、段々に郭が続き、やがて畑になっています。
本郭と南面に段々と続く郭? いまは畑作地
これが家臣屋敷の跡なのか、後世に拓かれた耕作地なのかは判りませんが、この城が単独で居城たり得たかというと、おおいに疑問です。
居館の詰め城が妥当かなぁ。
昌幸が当主となって真田郷に戻ってから、この地で戦いが起こるのは“上田合戦”まで無いから、ここに立って采配を振るった事は無いでしょうね。
昌幸が当主となって真田郷に戻ってから、この地で戦いが起こるのは“上田合戦”まで無いから、ここに立って采配を振るった事は無いでしょうね。
上田市は“本拠”と断定して整備してるが、果たして…