日本100名城 №61 高取城 登城日 2014.5.3

所在地 奈良県高市郡高取町高取
城郭構造 連郭式山城
通称 芙蓉城、鷹取城、高取山城
築城年 1332年(元弘2年) 室町時代
築城主 越智邦澄
主な改修者 筒井順慶、本多利久
主な城主 越智氏、筒井氏、本多氏、植村氏
廃城年 1873年(明治6年)
遺構 石垣、堀、井戸など多数
文化財指定 史跡(国指定)
城郭構造 連郭式山城
通称 芙蓉城、鷹取城、高取山城
築城年 1332年(元弘2年) 室町時代
築城主 越智邦澄
主な改修者 筒井順慶、本多利久
主な城主 越智氏、筒井氏、本多氏、植村氏
廃城年 1873年(明治6年)
遺構 石垣、堀、井戸など多数
文化財指定 史跡(国指定)
GWのさ中、大和の高取城にやって来ました。
この城に魅せられたのはかれこれ20年前、フラッと訪れてその嶮しさに難渋し、辿り着いた先にはとんでもない規模で、その当時の概念での“文字通りの城”がある事に驚いたのがキッカケでした。
『何でこんな所にこんな城があるんだ!』という疑問から深く調べ出して、ハマッて行った次第で、今回の訪問は5回目になります。
この城に魅せられたのはかれこれ20年前、フラッと訪れてその嶮しさに難渋し、辿り着いた先にはとんでもない規模で、その当時の概念での“文字通りの城”がある事に驚いたのがキッカケでした。
『何でこんな所にこんな城があるんだ!』という疑問から深く調べ出して、ハマッて行った次第で、今回の訪問は5回目になります。

南麓にある“五百羅漢像”
高取城の起こりは南北朝の頃で、南朝方についた土地の豪族“越智邦澄”の築城に始まります。
戦国後期、越智氏が仕えた大和郡山城の筒井順慶は高取城を支城群の一つとして本格的に整備します。
筒井氏が伊賀上野に去った後の大和に入って来たのは“豊臣秀長”で、秀長は居城の大和郡山城の“詰め城”として高取城を近世城郭に変貌させます。
その時の秀長の領地は大和に加え、和泉、紀伊の三ヶ国100万石に及び、“戦略的価値の高い城”として高取城に財力を惜しまず投入したものと思われます。
秀長が病没した後、城代の本多利政は豊臣秀吉の“直臣”となり、1万5千石で高取城を“管理”して行きます。
この構図は徳川時代も変わらず、旗本の植村家政が2万5千石の大名に取り立てられ、新たな城主となりました。
しかも時の将軍秀忠は『高取城の修築に幕府の許可は要らない』というお墨付きを与える念の入れ様です。
かくして植村氏14代の治政を経て、明治維新を迎えます。
しかも時の将軍秀忠は『高取城の修築に幕府の許可は要らない』というお墨付きを与える念の入れ様です。
かくして植村氏14代の治政を経て、明治維新を迎えます。
廃城令で城の建物は競売に付されますが、不便な地ゆえに買主も現れず、朽ちるに任せた…と言われます。
秀長が企図し徳川が継承した高取城の戦略的価値とはいかに?
秀長が企図し徳川が継承した高取城の戦略的価値とはいかに?
高取城を歩く
1.アプローチ
高取城は奈良盆地が紀伊山地に変わる場所にあり、最寄駅は近鉄吉野線の“壺阪山駅”で、近鉄各線で大阪・京都・奈良・名古屋方面と繫がっています。
1.アプローチ
高取城は奈良盆地が紀伊山地に変わる場所にあり、最寄駅は近鉄吉野線の“壺阪山駅”で、近鉄各線で大阪・京都・奈良・名古屋方面と繫がっています。
壺阪山駅は城下町高取の玄関口で、電車で行く城の代表の様なロケーションですが、今回は出先からなのでクルマで訪ねました。
R165で桜井に出て、大和路の春景色を楽しみながら明日香村を抜けて南下すると高取です。
ここでまず目指すのは観光案内所“夢想館”で、国道から少し入った旧街道沿いにあるので、左折して入って行きますが狭いので要注意です。
ここでまず目指すのは観光案内所“夢想館”で、国道から少し入った旧街道沿いにあるので、左折して入って行きますが狭いので要注意です。

町で唯一?のレストラン
地場の天然素材を使ったヘルシー料理が自慢
近くの酒屋前の仮設の“観光駐車場”にクルマを停め、登山装備に換えて案内所を訪ねます。
ここでは一部有料ながら、欲しい資料が揃っていて、重宝します。
向かいのレストランで早めの昼食を採り、勇躍出発します。
向かいのレストランで早めの昼食を採り、勇躍出発します。
2.登城路
高取は城下ですが、高取城本丸との距離は4㎞、比高差は390mもあります。
高取は城下ですが、高取城本丸との距離は4㎞、比高差は390mもあります。
大人の脚でも裕に2時間の距離。 家臣団は高取に居を構えていたそうですから、毎日の登城だけでも大変な仕事です。
歩き始めはほぼ平坦な舗装路も、だんだん傾斜がきつくなるに連れて地道に変わります。
変わり目の場所の砂防公園前にトイレと自動販売機があり、双方ともこれが最終ですので、チャージを忘れずに。
地道はいつしか細い沢沿いの林道に変わり、間もなく階段半分の登山道になって行きます。
地道はいつしか細い沢沿いの林道に変わり、間もなく階段半分の登山道になって行きます。
沢沿いの道も、これが大手道?と思いましたが、沢の反対側に道路らしき遺構があります。
沢が遠ざかって行くと次第に本格的な登山です。
辺りは杉林の中で、城の遺構も確認できない“杣道”であり、本当にこんな所を石を運び上げたのか疑問が沸いて来ますが、“一升坂”という所に差掛り、名前の由来の説明看板を読むと『労役の大変さから、この坂で石運びをする者には米一升の追加報酬があった』とありますから、本当に運んだ様です。

登城路は急なまるで樵道
時々人の手が加えられた痕跡が現れ、登城路なのが判ります
高取の城下を出発してから1時間半、2度の休憩を取って一升坂を登り切ると、“猿石”に着きました。
猿石は近隣に点在する古墳の副葬品で、それがここに有るのは、建材として運んだのか、城の守り神として故意に移動させたのか…定かではありません。
ここは“二ノ門”の門前で、もう目の前に門を固める石塁が見えます。
猿石は近隣に点在する古墳の副葬品で、それがここに有るのは、建材として運んだのか、城の守り神として故意に移動させたのか…定かではありません。
ここは“二ノ門”の門前で、もう目の前に門を固める石塁が見えます。
草木に浸食されながらも、森の自然の中に現れた圧倒的な石積みの姿は、それまでの道のりを考えると“奇跡”の様でもあり、遺跡を発見したインディー・ジョーンズの気分になります。
見方によっては、高取城のハイライトの瞬間かも知れません。

3.北曲輪
高取城は大きく分けて二つの曲輪からなり、山上の本丸を中心とした主郭部は紀伊山系に近い南側にあり、仮に“南曲輪”とします。
高取城は大きく分けて二つの曲輪からなり、山上の本丸を中心とした主郭部は紀伊山系に近い南側にあり、仮に“南曲輪”とします。
“北曲輪”は大手のやや下がった尾根上にあり、家臣の屋敷を中心としたエリアでした。
二ノ門は北曲輪の入口にあたりますが、その門前は土橋の形状になり、左手は急斜面に、右手にはなんと“水堀”があり、鬱蒼とした森林の中に神秘的に水を湛えています。
二ノ門は北曲輪の入口にあたりますが、その門前は土橋の形状になり、左手は急斜面に、右手にはなんと“水堀”があり、鬱蒼とした森林の中に神秘的に水を湛えています。
