日本100名城 №15 足利氏館跡 登城日 2012.11.18

所在地 栃木県足利市家富町2220
城郭構造 寺院として存続
通称 鑁阿寺(ばんなじ)
築城年 1150年頃 鎌倉時代
築城主 源義康(足利氏の祖が居館を置く)
主な改修者 足利義兼(邸内に寺院招聘)、 足利義氏(氏寺として独立)
主な城主 足利氏累代
廃城年
遺構 門、土塁、堀
文化財指定 国の史跡(寺院建物は国宝、重文など多数)
城郭構造 寺院として存続
通称 鑁阿寺(ばんなじ)
築城年 1150年頃 鎌倉時代
築城主 源義康(足利氏の祖が居館を置く)
主な改修者 足利義兼(邸内に寺院招聘)、 足利義氏(氏寺として独立)
主な城主 足利氏累代
廃城年
遺構 門、土塁、堀
文化財指定 国の史跡(寺院建物は国宝、重文など多数)
足利氏の館跡として100名城指定されてる鑁阿寺(ばんなじ)に行ってきました。
足利氏の祖、源義康(戒名:鑁阿)が築いた居館に二代目の義兼が持仏堂を建立し、三代の義氏の代に足利氏の氏寺“鑁阿寺”として独立したものが現在まで続いています。
足利氏の祖、源義康(戒名:鑁阿)が築いた居館に二代目の義兼が持仏堂を建立し、三代の義氏の代に足利氏の氏寺“鑁阿寺”として独立したものが現在まで続いています。
中世豪族の居館の構えを現在に伝えると共に、寺院としての歴史も長く、本堂が国宝であるほか、幾多の重要文化財、県文化財を擁し、その歴史的価値が高く評価されています。
義氏が居館を氏寺に変えた理由としては、源氏の嫡流に近い血筋の上、母が北条政子の妹であって、鎌倉幕府の中でも常に高い地位にあった事から、足利の地に戻る事が殆ど無かった…のが真因と考えられます。
1.アプローチ


参堂に立つ尊氏像
箕輪城からの移動でクルマです。
北関東道を太田桐生ICで降り、R50を南下して、R293で左折して向かいました。
道沿いの“足利学校”の向かい側にある“太平記館”に駐車して、徒歩で向かいます。
足利学校の門前を通ってT字路を右折し、突き当たった所が“鑁阿寺”の南門です。
この辺りの界隈はよく整備されてて、白御影の石畳が続き、立ち並ぶ家々(ほとんどが店)も古い町屋風で統一されてて、雰囲気があります。観光と参詣の客には嬉しい環境です。
そして、足利氏の氏寺だから、当然“尊氏公”の銅像があります。 鎌倉以西で活躍した足利尊氏…たぶん来た事は無いだろうけど、郷土の英雄ですね。
2.外郭
館跡は不等辺な200m四方ほどの四角い敷地で、周囲には水堀が巡らせてあります。
堀幅は5m前後か…広くはありません。
その内側は土塁が積んであり、高さは3mほど。
少し時代は下がりますが、武田氏館も良く似た構造ですが、規模は大違いですね。
館跡は不等辺な200m四方ほどの四角い敷地で、周囲には水堀が巡らせてあります。
堀幅は5m前後か…広くはありません。
その内側は土塁が積んであり、高さは3mほど。
少し時代は下がりますが、武田氏館も良く似た構造ですが、規模は大違いですね。
土塁の基壇には石積みがなされてて、本格的な感じがするものの、石は丸い川原石で、セメントで固めてあります。
門は四面の中央に4ヶ所あり、南門には屋根のある立派な木橋が架けられてて、雰囲気を醸しています。 これは明らかに寺院の改変で、居館時代の門は2ヶ所だったでしょうね。

堀端の風景
3.境内
境内に入ると、割とガランとしていて、東西と南の門から参道が真っすぐに走り、交点の北側に本堂、その両側に付随する建物があります。
どれも古くて意匠に優れた立派なお堂ですが、庫裡などは門外にある様ですね。
境内に入ると、割とガランとしていて、東西と南の門から参道が真っすぐに走り、交点の北側に本堂、その両側に付随する建物があります。
どれも古くて意匠に優れた立派なお堂ですが、庫裡などは門外にある様ですね。
南側は庭園や公園になっていて、オープンなスペースです。ここの土塁には登って行けますが、ただ道があるだけw
四隅の部分は広くなっていて、矢倉があったであろう当時の名残りです。
もうひとつ、西からの参道脇に大きな銀杏の木が
四隅の部分は広くなっていて、矢倉があったであろう当時の名残りです。
もうひとつ、西からの参道脇に大きな銀杏の木が

大銀杏 ほんとにデカイ!
健在です。これは足利義兼お手植えと伝わり、樹齢鑑定でも同様な数値が出てるので、館の歴史を見てきた生き証人です。
七五三の時期で、参詣客で混み合っていて、“歴史の話を聞く”なんてとても不可能。 ここはもう完全にお寺ですね。それで良いと思います。
七五三の時期で、参詣客で混み合っていて、“歴史の話を聞く”なんてとても不可能。 ここはもう完全にお寺ですね。それで良いと思います。
100名城からも外さないと、“名”がつくほどの城の要素はまるで無いし、はるばる訪ねる城オタはとても肩身の狭い思いをします。栃木県は“唐沢山城”にしましょう。
4.足利学校
機嫌を直して、隣接する足利学校に寄ってみます。
学校の始まりはハッキリしませんが、平安時代には何らかの施設があった様です。
機嫌を直して、隣接する足利学校に寄ってみます。
学校の始まりはハッキリしませんが、平安時代には何らかの施設があった様です。
有名になったのは関東管領:上杉憲実が本格的に整備し、全国から学生を集める様になってからで、卒業生が戦国大名に就職して活躍したそうです。
江戸時代にも徳川の庇護を受けて身分を問わず学生を集め隆盛しますが、その後は藩校の普及もあって衰退しました。
明治になり、ここに小学校が建つ事で廃校となり、遺構の殆どは撤去されますが、のちに残った遺構が国の史跡に指定されます。
明治になり、ここに小学校が建つ事で廃校となり、遺構の殆どは撤去されますが、のちに残った遺構が国の史跡に指定されます。
近年、小学校の移転により、やっと当時の姿への復元が叶いました。

足利学校表門
足利氏館と同じ居館構造を持ちますが、防御の必要も無いので、細部はオープンな造りです。萱葺きの庫裡、方丈、孔子廟、生徒の寄宿舎からなり、貴重な蔵書を収納する遣蹟図書館もありますから、一見の価値は有ると思います。