1983 26 3-2
1984 17 0-2
五月女投手は、関根監督時代の1982年に西武から無償トレードで横浜に来た。当時33歳だったが、かなりのベテランが来たという印象があった。上の現役時代の写真よりも、プロ野球マスターズリーグの写真の方が当時のイメージに近い。腹が出ていて、パンチパーマで、メガネをかけていた印象があるのだが、記憶違いかもしれない。(吉幾三がハッピを着て鉢巻をしている姿と混同したかもしれない。)
栃木県鹿沼農業高校出身ということで、栃木訛りの田舎のおじさんという風体が、「さおとめ」というカッコいい名前(当時、早乙女愛という美しい女優さんがいた)と好対照であった。ウグイス嬢がきれいな声で「ピッチャー・さおとめ」とアナウンスすると、白馬に乗った、りりしい王子様のような、速球派のリリーフ投手が出てくるのではないかという期待の中を、中年体型のオヤジが登場してくるアンバランスさに何ともいえない味があった。
1982年には関根監督から信頼されて58試合に登板した。中継ぎで出てくると、ピンチの場面でも、田舎のおじさんらしく、まったく動ぜずに変化球で打者を討ち取って、堂々とベンチに引き上げていった。ユーモラスな体型に、強心臓が備わっていたのもアンバランスだった。
実は、五月女は鹿沼農業高校を卒業後に、日本石油に所属しているから、立派な横浜ゆかりの選手である。日石といえばかつて平松政次が所属していて、都市対抗野球に横浜市代表として何度も出場している社会人野球の名門である。五月女は日石時代にノーヒットノーランも達成している。選手名鑑は、プロ入りする前の最終所属チームを書けばいいのに、出身校とするから、日本石油ではなく、鹿沼農となり、いなかっぺ大将が連想されることになる。
五月女は阪神にドラフト1位で指名されるが、3年間で1勝2敗と芽が出ず、太平洋クラブライオンズ(現・西武)にトレードされた。そこでも5年間で8勝7敗であったから、1982年にセ・リーグの横浜で、大勢の観客の前で58試合登板して6勝をあげたのが、プロ野球人生で最も輝いた年だろう。
1984年に横浜で現役引退し、その後は2001年からプロ野球マスターズリーグの東京ドリームスで活躍した。現役の時からオヤジっぽい選手だったが、実際にオヤジになってからも活躍した。五月女は中高年の手本となる、オヤジの中のオヤジだ。
参考:
ウィキペディア 五月女豊
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E6%9C%88%E5%A5%B3%E8%B1%8A




