毒を食らわば皿までも!
この後に及んで騒ぎ立てたところで何ができるの?
事象を解析してあそこが悪い、インチキだと証明したところでだから何だというんでしょうか?そこに存在して何かしらの影響を受け結果を出すに至るだけ。
辛い思いも経験に
良い結果も努力の報いに
ほんの一瞬の出来事が予期せぬ影響を被って努力だけでは及ばない出来事を引き起こしたのが結果です。
ついてるついてないがあるかもしれませんが、原因と結果の法則は必ず影響しており、その答えがすぐに現れる場合と長いスパンを介して大器晩成に因果応報として成り立つ場合があります。
だとしても其処にそれなりの覚悟というか意図した狙いを明確に示さなければ偶然の出来事が降り注ぐ事を願っていても無意味です。
想念とはそう言う事です。
紆余曲折、一念の貫きを持って一通り事象として経験し酸いも甘いも理解できた時、
あゝ〜こんなもんなんだとか、全てが想定範囲内で当たり前と言った結果が出るんです。
つまらない話ですがそうなんです。
それを未熟な我々は少しでも自分に都合の良い様に解釈して、美味しい情報やずるい発想から少しでも容易くこたを引き寄せられる方を見つけ出し自分勝手な演出に溺れ、我欲を満たせない不満を何らかの言い訳に結びつけ分析したがるんです。
幾ら精密に解析できたところで、それはただ要因を置き換えるに過ぎず一連の要件を乗り越え、それだけのスキルを養わない限りそれに至る摂理は成立しないのだから、ただ単に言い訳をして遠回りしているだけに過ぎないということになる。
いじけたり・怯えたり・不安をかざしていかに悲劇のヒロインかを
説明してもだから何?
それは成功への必要なスキルには一切必要ありません。
甘えて宥めてくれるのは母親だけは分かってくれるでしょうが、自ら其処を抜け出さない限りいつまで経っても心地良いだけで成長はありません。
自分に振り返り見つめ直して決心して一歩ずつ、不安ではありますがゆっくりと成長し納得を繰り返すことで、知識と自信が養われます。
本物のそれを手にした時にいつの間にか揺らがない真実の道筋が見え始め、周りからのまやかしにすら動じないほどの心の強さも養われていることに気がつきます。
昔から日本の職人は手解きして教えない、仕事は見て覚えるもんだと言った感覚がありますが、本当は全てを教え尽くしたいのですが、容易く目先の技の工夫を伝授したところでその術とした技量は真髄を見極め会得した感性でなければ誤った解釈で伝わってしまうために、道に迷い到達を遅らせる結果に至るのです。
自らを最大の障壁にたとえ乗り越えてもらえるために常に気配を感じ物音を聞き分け見守っているのです。
分かってくれとは言いません。
だからそれだけに険しい選択をした文化・技量を絶やしたくないために精進しているのです。