幾度ともなく涙が溢れ返ってくる

 

 

 

 

いくら悔しくっても

何度となく嫌な思いを繰り返したところで決して自分が感じるおかしな事は

受け入れられません。

 

ずるく選択して自分に都合よく判断して取り繕う事は

何遍でもしてきましたが、納得ができない取り決めやその場の摂理に対して

抵抗感が湧き出ても自分の意見を押し殺し同調したスムーズな解決策を選択するのは

必要最低限の大人の振る舞いなのか?判断に困ります。

 

私が事業していた頃に従業員に対して理不尽な依頼を押し通し、それを道理がまかり通る様にへし曲げた表現になった時、猛烈に抵抗された事がありました。

 

仕方がないでしょ!世間のニーズがそれを許さないんだから意味を押し通しても製作側の拘りにしかならないじゃないか。

 

でも普段からそれが大切でそれが通じれば認めて貰えるんだと、言い続けてきたのは私自身であった。

 

その矛盾はどう判断すればいいのだろう?

 

立場的優位性が無意識に譲歩を強要していたり空気を読んで取り繕う忖度が優遇される事は十分にある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

以前に突然に黒塗りの高級車が道路を遮断してヤクザ風の連中が親分らしき取り巻きを誘導してその場を自分勝手振る舞っていた現場に遭遇した事がある。

 

それが、暴走族であったり政府の取り巻きによる海外の重鎮だったりしたら、やっぱりしょうがない事だ!と諦めて大人しく待っているのだろう。

 

だけど同じ様な振る舞いが一般的なドライバーや無秩序な若者カップル辺りだったらどうなっていただろう。

 

即座に頭にきてクラクションをけたゝましく推し騒いでいただろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

私の近況報告で新しい会社に移行してこれからの生活の基盤を固めようと決意したところだが、やたらと相手方の意向が手に取るように感じ取れてしまうので上記の様な感情の置き所に悩んでいます。

 

相手の目論見・優先順位・妥協点に誤魔化し方などありとあらゆる大人の条件が折り重なり物事が運ばれますが、同じ表現でも立場やシチュエーションの違いでいくらでも感じ方が変わります。

 

何度も今回の転職は辞めるべきかと自問自答してきましたが、最終的には先方の意向を全面的に受け入れて従う状態を認めました。

 

何故ここまで減りくだり嫌がらせにもされるがままに成り立ちを認め居るのか自分でも驚いています。

 

しかしこうなる様に整っている感じなのです。借金返済・仕組まれた生い立ち尽くこうなる様になっているんじゃないかと感じるんです。

 

そうやってそこに存在する姿をみんなに見せる為にも役割が

充てがわれている様に感じます

 

 

 

 

 

 

 

 

 

おそらく私は144000人の中に取り込まれているのではないかと勝手に思っております。

 

なんともお粗末に自分勝手ではありますが、そう思うのは勝手です。

 

でもそれが選ばれし特権というのではなくて、自ずから進んで受け入れた壮絶な選択を自ら押し進めなければならない受け止め方によるものなのです。

 

本来の今起きている世界事情も全ては世界人類の成長段階の一環であり次の段取りに移行するプロセスに他なりません。

 

そう考えれば、それこそ悪役がいてこそ正義の味方が光り輝くのであって、大袈裟に効果音が轟いたり照明による演出が図られるのならばわかりやすいですが、現実は生成りです。

 

 

 

 

 

 

 

 

そんな中キリストが十字架に貼り付けられて見せしめに会う事で、見るもの全てにまさに何らかの杭付けが残ったのではないでしょうか。

 

そんな風な役割が自ら選んだシナリオにどっぷりハマっている感じがするんです。

 

本来の十字架は正十字であって処刑台の象徴とはかけ離れた光の光線を意味しています。

 

そういった象徴が誰しもに気付きに役立てる役割をもって存在しています。

 

遅いか早いかの違いはあれど全人類の移行期に差し迫っているのは確実であり、自分の役割にあたる、あるべき判断が自らの意識の目覚めでハッキリと現れるに違いありません。

 

信じて純粋に思う事で抵抗はなくなります。