情報発信は表現の自由
正しいか誤りなのかは審議を当て検証しない限り立証することは難しい。
その内容がどうであれ表現の自由が守られている限り、情報を与える側も受け止める側もその精査は自分の判断に委ねるしか無いでしょう。
そんなこと言っちゃダメ!なんて言うのはその組織や役割の立場上責任がついて回る場合に問われることで、個人の思いを伝えるのに感じ方や人の顔色を伺う場合以外はそう思っちゃったんだから仕方がないですよね。
不安に思ったり恐怖心を抱いたりその当事者の心理的成長に対しての制約は何もない筈です。
それを乗り越えて経験したり事前に回避する判断は自業自得であり他人に促されての行動であろうとも自分に降りかかってきます。
今、平和な社会を守る為と称してある一定の倫理観を「普通はね」と言った視野からその解釈を外れた部分を必要以上に蔑視する風潮がございます。
日本人はただですら島国根性とでも言いましょうか、周りを気にして強調して暮らすことを余儀なくされている様だが必ずしもそうしなくていけないものではないのです。
多くの人が同じ時間に生きています。
似た様なものを求めて似た様な反応をしていることから様子を気にして生き易くスムーズに調和を図ろうとした一環なのは分かります。
だからこそその判断を成長させて自らの責任を果たすべきなのです。
それには多少に行き違いがあったところであなたが直接影響をうけ被害を被る必要はないのです。嫌なら拘らなければ良いのです。
たとえそれが親兄弟であろうとも命の責任は自分で取らなければならないのと一緒です。
多少判断が違ったところで、だから絶交するとはなりません。お互いの主張を尊重すればこそ食い違いは存在します。
提供する側とされる側では求める反応は全く逆な発想です。
それが需要と供給の原理です
そこに金儲けを結びつけ利潤を稼ぐ発想だから損失が目立って、その有効性を突き詰める結果、損得勘定が大半を占める様に成っているんです。
たとえ損していても得をしていても、やらなくてはならない時は身を挺してもやると言うだけです。
思いの外結果が良かった場合に成果とした評価が高かったり逆に反省を要する場合がありますが、それが至らなかったらその経験が財産になり次回にはその選択以外の有効打が打ち出せるに違いありません。それが成長です。
どうしても今までの時代は時間とお金に振り回されて競争的社会のサイクに組み込まれていただけに、何かにつけて周りを気にしすぎてきたと思います。
どんな変化が訪れるのかは定かではありませんが、少しずつ感覚を研ぎ澄まし変化を味わいたいものです。
差別や偏見を恐れずネットを配して世間に自分の発言を出せるチャンスが増えています。それだけに誹謗中傷を逆に与えてしまいかねないのも事実です。
そういう場を介して争うことなく振り回される事なく必要以上に恐れる事なく、ご自身で判断しましょう。
良い映画見つけました。
見る人によってはガッツリハマって今が旬って感じです。
インターステラはパラレルワールド
パッセンジャーはオーロラ・レイ