不安の仕組み

 

 

 

 

本当に自分の選択は正しいのか?

誰かに否定されて誤りだと認める事に躊躇するタイミングはかなり勇気がいるのではないでしょうか。

 

今まで正しいと思って精一杯頑張って来た分野を外野から指摘されると、無性に腹が立ってくる。

 

それまでの絶対的信頼と実績に自信があるだけに対抗するだけの自信が漲っているそんな気持ちが正直、先輩と後輩の様な絶対的優位な関係からも修正を受け入れられないだけのお膳立てができています。

 

なんかムカつくなぁ〜

感じ悪りぃ〜なぁ

 

顔が可愛い女の子に対して男子が必要以上にエコひいきをしている光景をよく目にします

 

それに対して同性の反応はその子の本質を見極め浅はかに媚びって男受けした反応を示している事に嫌悪感を抱きます。

 

顔形や年齢で評価基準の対象を判断している男社会が織りなす現象は明らかです。

 

しかしそんな世界観で生き抜く術を会得した生存競争ではごく自然に発生した対応策でもあります。

 

こう言った固定的な観念から人とした評価を異性間でも正当に評価しそれに値するだけの実力を身につけるにはやはりそれだけのズルや人には言えない工夫が胸の内に詰め込まれているでしょう。

 

それをトラウマと言ったり自己主張の扱い方が上手くても下手くそでも影響しています。

 

 

 

 

 

 

 

 

感情にはそれなりの自己防衛本能の様な機能を拝しており無意識なうちに感じ取り、自分に害を及ばせない様に直感的に対応してしまっているのです。

 

脳みそが反射神経とした反応を示し応じていると言う事は、そこを上手く騙しながら恐れや不安に振り回されない様に訓練する事で成長して対応反応を改善する事もできるのではないでしょうか?

 

初対面の人物や初体験の出来事にその反射作用が影響し本来持ち合わせていた能力を十分に発揮できるかはそこの自信という見えない根拠がとても大きいと思います。

 

愛を持って全てに対処する事は困難でも、興味を持った相手や自分自身の身の回りの安心安全を貫くためには、それなりの障壁や妨害があってもそう言った身の回り全てが自分の精一杯のエナジーで充しておいてあげる事で、自ずと自分が守られた環境に属しているという事に気がつきます。

 

自分さえよければと独りよがりに報酬を得ようとしても、周りの人はそれに群がりおこぼれをついばもうと手を替え品を替え言い寄って来ますが、

 

安心や信頼を重視して母親が子供に食事を与える様に絶対的な関係がなりたてば、それは無償の愛が守られるべき対象になり全ての根源的象徴を脅かす様な考えすら、わき起こらなくなります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

人生と言う修行の場を思考の癖付けに例える事はできますが、そればかりではあまりにもつまらなさ過ぎます。

 

良いも悪いも大切です。

 

それでも親切にされると嬉しくなります。

 

優しくされるとお返しに丁寧に気持ちを伝えたくなって来ます。

 

お互いにそんなエネルギーを発して安心を元に行動していれば何も相手側を構えて受け応える必要がない事に気がつきます。

 

 

 

 

 

 

思いも湧かないくらいに満たされた環境では、重要性も大切にしたい感情も抱きません。

 

ちょっと足りないくらいでもそこから共振して満たせば十分に有り余るほどの成果も作れます。

 

焦らず怯えず少しずつ分け与える事が満ち溢れそこに満たされた自分を宿せば安らかである事が自然になるでしょう。