走るおっさんライダーのブログ -17ページ目
生物多様性についての本を読んだ。
『生物多様性とは何か』井田徹治著
『生物多様性のウソ』武田邦彦著
の2冊だ。
生物多様性の保護活動をされている方からは、後者の本は大変なバッシングを受けているようだ。
あくまでも個人的な印象として書くが、『生物多様性のウソ』のバッシングをしている方の多くは、生物種の保護活動をされている方々。
しかも、以前同氏が書かれた『環境問題はなぜウソがまかり通るのか』については良い評価をされている。
その上で、この本の批判には、「生物多様性について、氏はよく理解していない。」と言っておられる。
それでは、生物種の保護活動をしている方は、環境問題のウソに関して、専門家(関係者)の立場で読まれたのだろうか・・・?そうではないはず。
氏が本の中で言われている通り、情緒的(感情的)に「生物多様性は保護すべき。」と言っていないのだろうか?
“おっさんライダー”は、環境問題も、生物多様性についても、同様に素人である。
あくまでもその素人から見ての意見だが、例えば、ブラックバスなどの外来種を脅威としながら、中国からトキを連れてきて日本の野に放つのは、矛盾を感じる。
たぶんこういうことを言うと、「トキは、日本のトキも中国のトキも、種としては同じ(?)だからOKだ。」
みたいなことを言われそうだ。(素人だから分類的な事はよくわからないが・・・)
しかし、やはり無理があるように感じる。
トキを再び日本で蘇らせたいなら、まずトキが絶滅するに至った原因こそ改善すべきではないのだろうか?
種を保存するなら、その種が生育できる環境を整えることでこそ保護すべきで、何が何でも種(トキ)を保護し、一方で、その生育環境の整備が行き届かなければ、問題の解決にならないように思う。
もしかすると、再びトキが保護され数が増えると、別の在来種の脅威となる可能性はないのだろうか?
日本人は、数万年前、大陸から渡ってきた複数の種族の混血だと言う。
それは、日本列島にとっては外来種とか種の汚染とは言わないのだろうか?
数万年前はOKで、数十年前のブラックバスはNOと言う根拠は??
現在、鯨を保護しすぎて、イワシが減っているという話も聞く。

沖縄の島で、ハブが危険だとして、マングースを連れてきて退治させようとしたら、ハブを退治せず、他の在来種の脅威になっていると言う。
米や野菜は、盛んに品種改良が行われ、遺伝子操作をした農産物も増えている。
また、ある地域から別の地域へ、野菜や果物の種を持ち込み、栽培地は変わり、拡げられている。
外来種の脅威は、動物だけではなく、植物にも言える事のはずだ。
極論だともいわれそうだが、もし生物の種を保護すると言うなら、ドブネズミやゴキブリは、保護せず退治してもいいのだろうか?
ある種の、適切な数はどう求めるのだろう?
天然痘などを引き起こすウィルスは根絶してもよかったのだろうか?
さまざまな病気の治療法を開発して、人間の数が増えて、それでもそれは、地球にとって優しい事だと言うのだろうか?
武田氏はこの本で、情緒的(感情論)で、生物多様性を語るのではなく、具体的(科学的)に、明確な根拠もないまま、ただ、保護を叫んでも、的外れな、あるいは逆効果な事をしてしまいかねない危険性がある事を、主張されていると思う。
現在保護活動をされている方には、大変申し訳ないが、人間の為=地球の為(生物全体の為)と言えるのだろうか?
結局、誰のため(人間の為?地球の為?生物全体の為?)の生物多様性保護なのだろう・・・と疑問を感じてしまう。


(この記事は2011/09/09にYahoo!ブログに掲載したものです。)
今、ほとんど誰でもが「エコ」や「省エネ」を訴える。リサイクル、循環型社会を目指そうと言う。
そして、ほとんど無批判にそれに従うのは、世界でもたぶん日本人だけではないのか?


一番大声で叫んでいそうなアメリカは、研究も盛んで、多くの調査資料も発表されているが、
しかし、1997年12月の、第3回気候変動枠組条約締約国会議(京都議定書)の時を見て判る通り、
いざとなると、損をしてまで従う気はないらしい。彼らの損得勘定はシビアである。
さて、もし・・・
   ① 地球環境の保全(改善)
   ② 現在の生活水準の維持
を両立させたいと思う時、一体どんな方法があるだろうか?
この前の記事に関連するが、
一番無駄なのは、死者を葬る行為(葬式、火葬、墓地、墓石など)ではないかと思った。
葬式では多くの花が捧げられ、火葬でエネルギーを消費してCO2を排出し、
自然を破壊して土地を馴らし、石を切り出して遠方から運搬している。

この一連の行為は、全く生産性がない。リサイクルから切り離されている。
そもそも、故人を葬る(ほうむる)のは人間だけだ。死者に付加価値を与える生物が、人間以外にいるだろうか?
人間が自然を破壊したと言うなら、その責任を負い、
人間しかしていない無駄の最たる行為“葬る”を辞めるのだ。
  まったく個人的な解釈だが、“死”を恐れるのは人間だけだ。
  野生動物は常に“死”と隣り合わせで生きている。
  人間以外の生物は、“死”を嫌がって(避けたがって)はいるが、恐れてはいないと思う。
  人は“死”を恐れるから、それを克服するために、死後の世界や霊や、天国や地獄、浄土を生み出した。
  ほとんどの人は“死”と言う現象から目をそらす。大量の家畜が殺されている事実に知らん顔だ。
  肉を食べながら、それがどのようにして食卓に並ぶか見ようとしない。“死”を恐れているからだと思う。
話をもどそう。
故人を葬る行為は、そこから何も生み出さない。
それでも尚、転用できない土地(墓地)を増やす。
多額の使用料を払って墓地(霊園)を買い(実際は借りるだけ)、都会でもないのに、そこには、
わずかの植物(面積に対しする植物のボリュームが少ない)しか生えていない。
それは非自然的でささやかな緑だ。それは循環型社会の対極にある。
人によっては、
「葬る行為なくして、故人との悲しい別れに、どうけじめをつけたらいいのか?」と言うかもしれない。
しかし、悲しみを引きずるか引きずらないかは、葬式や墓の有無には関係していないのではないか?
葬る行為は必要だ。と言う感覚は、先入観によって生まれているだけ。
けじめをつける方法は、葬式や墓が無くとも可能だし、けじめをつけない選択もある。
忘れるか忘れないかと、悲しいか悲しくないかとは別なのだから、つまるところ、
けじめのつけ方は本人(遺族)次第だ。現在のような墓の形式は、数百年の歴史しかないそうだ。
「神仏を恐れない罰当たりな考えだ。」と言う人がいるだろうか?
しかし、仏教の祖、釈迦は自らの葬儀を弟子が行うことを承認せず、「在家信者に任せよ。」と言った。
浄土真宗の初期の僧親鸞は、「自分が死んだら川に流せ、魚の餌にしろ。」と言ったそうだ。
ちなみに、チベットでは鳥葬が現在でも行われているそうだ。これは、人としての究極的循環ではないだろうか。
故人を鳥に処理させるのは、日本人の感覚からすると抵抗感があるかもしれない。
しかし、これもれっきとしたチベット仏教に基づく葬り方だ。
「その行為の中から文化・芸術・音楽なども生まれた。葬る行為は無価値ではない。」と言うかもしれない。
しかしそれは詭弁である。なぜなら、葬る行為に関係しない優れた、文化・芸術・音楽のほうが圧倒的に多い。
逆説的にいえば、文化・芸術・音楽を生み出すために、葬る行為を始めたのではないのだ。
それらは、単なる副産物である。
そもそも、“葬る(ほうむる)”と“弔う(とむらう)”とは、別のものだと思うのだが、
葬式必要論者は、“弔う“重要性を述べ、それを“葬る”理由にすり替えている様にしか感じられない。
故人を、大いに弔えばいいと思う。しかしそれは、葬る行為の、大いなる無駄を正当化できていない。
では、どう葬るのか?
遺体を放置すれば、腐敗し病原菌などが発生し、生きる人にも悪影響が考えられる。
山野に放置し、鳥や動物に与える場合、遺体の一部を目にする可能性があり、トラブルの元になる。
国土が狭い日本では、この方法は向かない。日本らしいのは、焼かずに“海へ還す”と言う方法だ。
自治体ごとにでも、一定の海域を決め一般の立ち入りを禁じ、更にその一部を囲って(遮断はしない)、
生物分解性の装束を着せ、囲いの中で遺体を海に沈めるのだ。
そこで、さまざまな海洋生物に処理してもらう。故人との最後の別れは、合同で港で行う。
遺骨ではないので“海洋葬”とは違う。骨だけ戻しても、大した栄養にはならない。
火葬場は廃止する。遺骨もない。墓も墓地もいらない。

まあ、まず実現しないだろうとは思うが・・・
例えば、かなり大規模な宗教改革が必要だろう。あるいは、社会状況の危機的な激変であるとか・・・。
しかし、人が自然の破壊に対する責任を感じ、尚且つ、生きている間、豊かさを享受したいなら、
死んだ後ぐらいは、少しでも自然にお返しする覚悟を持っていいのではないだろうか・・・

(この記事は2011/08/26にYahoo!ブログに掲載したものです。)
数年前に、本屋で『環境問題はなぜウソがまかり通るのか』と言う本が目にとまり、
買って読んでみた。
最近よくテレビに出ておられる、武田邦彦教授の本である。


環境問題について、報道などで言われていることが、どれほど事実に反することなのか・・・
科学者の視点で、データを示しながら解説されている。

特に目を引くのが、今、盛んに地球温暖化が叫ばれ、海面上昇が危惧されている問題。

国際的な研究機関である ICPP(気候変動に関する政府間パネル)では、予想されているシナリオの平均数値で、海面上昇は30年間で11cm程度。

これを多いと言うのか、少ないと言うのか・・・?

過去40年間に海面は既に、7cmほど上がっているそうである。
では、それで何か問題が起きたのか?う~ん、思い当たらない・・・。


テレビでは今も、家族のいる家から、仕事に出かける男が、潜水の装備を付けて、水中を泳いで会社に向かう映像で、危機感を煽っている。
何百年先のことを言っているのだろうか・・・?


“節電”を叫び、照明をこまめに消灯したり、家電の待機電力を心配して、
プラグを抜くことを勧めたりしている。
それでどれだけの電力が節約でき、どれほど二酸化炭素の排出を抑えられるというのか?
二酸化炭素の排出が、温暖化の原因であると証明されていないのにである。
そんな微々たる努力など、一回の海外旅行のジェット燃料分にもならない。


エコカーに乗り換えても、燃費が良くなった分遠くへ出かけるなら、環境に優しくはない。
それどころか、走行距離が増えるなら、道路の維持管理や新たな道路の建設が増え、そのために、化石燃料は使われるのである。自動車の製造にも、多くのエネルギーが使われる。


何らかの危機感を煽って、ある方向に人の意思を向かわせようとするのは、その原因が、明確に証明されていない以上、それは宗教であると言える。
宗教の終末論と同じだと思うのだ。
政治も産業も、「エコ」と言う新興宗教で、信者(国民)から労力と金を巻き上げているのようなものである。


多くの人が「テレビや新聞の情報は正しい」と思っているわけではないだろう。
しかし、“環境問題”と言うと、その疑いがどこかへ簡単に飛んでしまうようだ。
日本の報道は、本質(原因)部分の証明を示していない。

「テレビや新聞で言っているから。」「あの人が言ったから。」「国際会議が開かれているから。」

そんなことは、本質(原因)の説明になっていない。現象の一部を見せているだけである。
政治や産業は、本質(原因)を問題にしてはいないからだ。
「民意がそうなら、その方向で…。」というだけである。報道は、注目されればそれでいいのだ。


「ゴミの分別」が必要だと言っておいて、
焼却炉では一般ゴミとペットボトルを一緒に焼いているのと同じだ。
リサイクルより、リサイクルしない方が、現状ではコストが安い(原油の消費が少ない)のだ。
それなのに、ゴミ処理の有料化が進むのは、そこに利権があるからである。


”環境問題”という呪文に思考停止していては、本当に環境にやさしい必要な措置はとれそうもない。

(この記事は2011/08/02にYahoo!ブログに掲載したものです。)
このブログで言っている 経済の『7ならべ理論』では、カードを並べる列は、
マークではなく様々なジャンルに例えることができる。
例えば、学術・研究分野の列。ITの列。インフラの列。高齢者の列。原発の列。社会保険の列。・・・・・
カードは一度に何枚も置く事もできるし、置かない選択をする者もいる。
カードを置くと言う事は、社会的に活動すると言う事だ。

誰かがある列のカードを止めると、その次のカードが置けない。
手持ちのカードが無くなると、その人はゲームオーバー。
また、カードはあるのに、誰かが止めていて、パスも出来なくなると、
いずれ“投げ出し”になってゲームオーバーだ。
しかし、ある列に順当に適切なカードが置かれれば、その後に次のカードが置かれ、列は長く伸びていく。
そのジャンル(業界)の成長だ。
強引に資産を膨らませたい者は、少しだけカードを並べては、様子見を繰り返し、他者のチャンスを潰すのだ。


政府の政策はと言うと、まるでジェンガのようだ。
小さな木片を下から抜いて、積み上げている。

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経済成長を促し、収入を増やす事をせずに、無理やり引き抜いているから、どんどん不安定になっていく。



“おっさんライダー”の好きな言葉に、『三方よし』と言う言葉がある。
これは「売り手よし ・ 買い手よし ・ 世間よし」と言う事。
そもそもの原典は、近江商人の商いの心得。
『たとへ他国へ商内に参り候ても、この商内物、この国の人一切の人々、心よく着申され候ようにと、自分の事に思わず、皆人よき様にと思い、高利望み申さずとかく天道のめぐみ次第と、ただその行く先の人を大切におもふべく候、それにては心安堵にて、身も息災、仏神の事、常々信心に致され候て、その国々へ入る時に、右の通りに心ざしをおこし申さるべく候事、第一に候』
と言うものだそうだ。

この国の官僚に、特に心がけて欲しいと思う。
自らの私利私欲の為に、隠れて天下り先をつくっても、実質的な生産者を苦しめていては、結局は自分の首を絞める事になるのだ。

この国の政治家に、特に心がけて欲しいと思う。
『社会保障にたくさん支出しなければならないから、増税しなければならない。』
では駄目だ。
増税とは“売り手よし”だ。社会保障は“買い手よし”と言えるだろう。しかし“世間よし”が抜けている。

『社会保障にたくさん支出しなければならないから、税収増の為に、失業者対策と経済成長をしなければならない。』なのだ。

子育て支援では、少子化の対症療法に過ぎない。失業者対策と経済成長があってこそ、少子化の本質的な対策になるのだ。
少子化の本質的な対策をしてこそ、将来の社会保障を担保できるのだ。そうしてこそ、税収が確保できるのだ。

くだらない危機感の煽りを止めるべきだ。
「少子化で人口が減り、社会保障の危機。」と言い、増税しようとしかしていないではないか。それでは問題の根本的な解決はできない。
経済成長すれば、出生率は増える。増税で生活に無理をさせてはならない。
税金をむしり取るのではなく、税金を無理なく払えるようにする政策が急務だ。

東日本震災は、見方を変えれば大きな需要の発生だ。
だから、復興を急ぐ事は、経済の活性化につながるのだ。しかし、民間だけでは難しい。
国家主導で復興しても、増税の必要は無い。逆に急いだ方がいい。
「予算が足りない。」などと言うのは、ミスリードだ。必ず経済効果がある。
この時、輸入に頼るより国内生産で復興したい。下手をして貿易赤字にならないようにして欲しい。

国政の失敗のツケは、結局国民が払わなければならなくなる。
今“おっさんライダー”は、大阪維新の会に大きな期待を寄せている。
“おっさんライダー”は、FX投資は危険なバブルの再来のような気がしている。
例えば10万円の資金(証拠金)で100万円とか1,000万円の取引ができるからである。
これは実際の資金額よりも多くの(見せ掛けの)資金が市場に出るわけで、市場の投資額は既にバブル状態である。
この外貨取引の市場に、このようなシステムを取り入れたのは、非常に危険な事態だと思っている。
恐らく市場が、投資額を膨らませ、パイを大きくしたかったのだろう。
市場が大きければ、儲けも大きい(損失も大きい)。取引額が大きいと、手数料も増えると言うわけだ。
現在は、儲けた人の影で多くの破産者を出している事が見えにくい状態だ。


さて、今回のテーマ『増税は収入増とセット』だが、よく考えて欲しい。
高齢者に給付された年金は、どこへ行くのだろうか?当然それは購買・消費に向かう。どこにも消えない。
つまり、就労者が生産し、流通し販売する商品やサービスである。
それらは間違いなく、雇用につながり就労者の収入になるのだ。
外国から食品などの安い商品を輸入していても、輸入総額と同額の輸出をする限り、経済規模は縮小しない。
国内での生産の効率化と、付加価値の高い商品を輸出すれば、少子高齢化社会に対応可能だ。
労働力が減少する中で、国内向けに付加価値を高くするのは好ましくない。
高付加価値の主力は輸出だ。そうでなければ、少なくなる労働力で必要量を確保するのが難しくなる。
付加価値の高い商品は、あくまでも輸出向けである。貿易収支を赤字にしない事が重要なのだ。
国外でこれから経済発展する国はまだまだたくさんある。
それらの国に、日本の高品質で、付加価値の高い、優れた技術の商品を輸出しなければならない。

この意味で、学術・研究分野に国が支出(投資)する事は、将来的に有効である。
しかし、国が利用価値の低いハコモノなどに支出するのは無駄だ。
利用価値が低いハコモノは、高い金をかけてゴミの山を作るようなものだ。
一時的に、建設費などとして市場に流れはするが、それだけにしかならない。
その分高齢者に給付したほうがいい。そうすれば、市場経済のためになる。

今、政府は『税と福祉の一体改革』と言っているが、中途半端なことこの上ない。
せめて『税と福祉と雇用の一体改革』でなければならない。
あえて二つを選ぶなら『福祉と雇用の一体改革』だ。
福祉が雇用や就労者の収入増につながれば、税収は必然的に増える。

福祉に大きな予算が使われるなら、それに関わる市場が大きくなり、雇用が増えることは疑いない。
医療費が上がるなら、医療関係の市場が大きくなり、雇用が増えるのだ。
それなのに、この事にはあまり触れられない。負担の話しばかりだ。だから、経済が萎縮するのだ。
雇用につながる事をアピールすれば、その分野の市場は活性化される。
その市場に個人や企業が参入し、高齢者に給付された年金は流通する。
それを言わずに、負担の話ばかりに焦点を当てるのは、増税をしたいからとしか考えられない。

負担が増えても経済に反映されないなら、政治家・官僚・自治体職員に多く流れている事になる。或いは公益法人など、一般の生活とは別のところでぐるぐるとカネを回し、それを膨らませているのだろう。だから増税したいのだ。これは許してはいけない。

増税は、収入増とセットでなければならない。

頭にばかり血が集まっていて、末端に行き渡っていないのだ。
税金は、富める者から持たざる者へだ。

・・・・・つづく
高齢化に付加価値は関係ないと前回述べたが、付加価値自体が不要だと言う事ではない。
付加価値は競争において、非常に有利に働く。
少子化となり人口が減少する日本では、付加価値は対外的には切り札なのだ。

人口が減少して、経済規模が縮小すると、いわゆるマーケットが小さくなる。
これは、外国から見ると魅力が減るということだ。
日本が必要な物資の全てを自給自足(自己完結)できるなら、海外を気にする事はないが
そうはいかない。
外国の物資を必要とする以上、国内で生産されたものを輸出して、それによって得た利益で輸入をしなければならない。
高品質で付加価値の高い製品を生産し輸出すれば、他国より販売競争に勝ち、或いは高価で販売する事ができ、国としての存在感を保ち、これに伴ってより有利に輸入する事ができるのは言うまでもない。

ところで、今回のテーマは『経済のミスリード』である。
経済が萎縮するのは、なんと言ってもミスリードによるものだと思う。
『景気が悪い。』と言っていると、誰もがそれに備えて買い控え、貯蓄しようとする。
買い控えをすれば、生産量を減少させることになる。生産量が減少すれば収入が減る。
収入が減れば、欲しいものが買えなくなる。これは悪循環だ。

ここに『7ならべ理論』の意味がある。
経済の“7ならべ”においては、スペード、ハート、クローバー、ダイヤの4種類ではなく、もっとたくさんある。一列のカードの枚数ももっと多い。ゲームでも経済でも、“7ならべ”は、誰もが自分の順番で、出すべきカードを出さずに”パス”をすれば後が続かない。
しかも経済での”7ならべ”では、パスの回数は“何回”と平等に決まっているわけではなく、資産によって違う。
また、経済では手持ちのカードが無くなれば負けになる。一般の人は、手持ちのカードを働いて補充する。

そもそも、投資(投機)市場でのサブプライムローン問題は、投資家が低所得者に向けてジョーカーを出したようなものだ。
手持ちのカードが少ない低所得者に対して、ジョーカーで無理やりそのカードを出させたのだ。
一旦無理にカードを出させたために、低所得者は自分の番が来たときに、カードが出せなくなってしまった。
もっと緩やかに進めるべき経済成長を急加速したために、投資(投機)の世界でのバランスが崩れ、急ブレーキとなった。
これにより、資金の回収が思うようにできなくなり、更に多くの投資家たちが“パス”をし始めた。
しかもメディアで、不況や世界経済の落ち込みを、あまりにも多く且つ大きく報道する為に、本来影響を受ける事が無い(若しくは少ない)筈の人達までが“パス”をし、次のカードを出せなくなった。
メディアでそのような危機感を煽るのは、過去から繰り返し行われてきた、単なる話題づくりと思っていい。それで右往左往してしまうから、関係ない者にまで関係してきてしまうのだ。

各国の政府は「投資市場での問題は、直ちに一般の経済に影響が出るものではない。」とでも言えれば、これほど世界経済に打撃を与える事はなかったのではないかと思う。
しかし、資本主義国アメリカをはじめとする世界の資本家達は、証券会社の一発屋に乗せられて、無謀な投資をしてしまったのだが、その無謀さのツケを自分たちで解消せずに、全体の問題としてすり替えを行った。

個人やある範囲に限定されていた危機を、全体の危機にすり替えて、他者に解消の協力をさせるのはよくある手段だ。

経済とは自転車操業なのだ。ペダルを漕げば車輪は回り、車輪の一点にブレーキパッドが押し付けられると、車輪は減速し、やがて止まる。
止まれば破綻なのだ。

・・・・・・つづく
さて、極端な話し、総人口100人の社会で考えると、日本ではおよそ50人の労働力があるのが現在だ。
<総務省の資料から>
2010年(平成22年)の人口は約12,805万人、就労者数は約6,590万人(約51.4%)
これは、50人の労働力で100人の需要を満たす生産(供給)を行なうということであり、50人で供給したものを、100人で消費するということ。
それぞれの労働力が生産(供給)するものは違い、衣・食・住関連の他、流通やサービス業も含まれる。
そしてこの中には、税金から捻出される雇用、インフラや政府・自治体など、公共サービスも含まれる。
とにかく100人分の需要があり、それを供給する事で流通し消費され、その媒介として貨幣がある。
それが『総人口100人の経済規模』だ。

仮にここで、この社会の貨幣単位をゴールド(G)とし、一人当たりの年間需要(必要消費総額)を税金も含めて100Gとすると、この総人口100人の社会の、年間需要の合計は10,000Gである。
この需要を満たす生産力があるなら、これを50人の労働力で10,000Gを賄うのだから、労働力一人当たりの平均報酬は年俸200Gで、GDP(国内総生産)は、同じく10,000Gと言う事になる。

A・総人口100人、労働力50人の経済
10,000G=100人の需要(100人×100G)=50人の労働力の生産能力=所得総額(50人×200G)
この時、労働力比率は50%だから、平均すると4人世帯なら労働力は2人である。

少子高齢化社会になって問題になるのは、高齢者の消費を支える収入を確保する方法ではない。
高齢化による労働力の減少によって、生産力が低下するのを防ぐ方法なのだ。必要なのは効率化だ。

今度は総人口100人の社会で、労働力が25人の社会をシミュレーションしてみよう。
この社会では、生産の効率化によって25人の労働力で100人の需要を満たす生産(供給)が可能ならば、そして一人当たりの年間需要が100Gに変わりが無ければ、同じく経済規模は10,000Gである。
つまり、労働力一人当たりの報酬は、10,000G÷25人なので、平均報酬は年棒400Gとなる。

B・総人口100人、労働力25人の経済
10,000G=100人の需要(100人×100G)=25人の労働力の生産能力=所得総額(25人×400G)
この時、労働力比率は25%だから、平均すると4人世帯なら労働力は1人である。

少ない労働力(高齢化)の社会では、労働者が苛酷な労働を課せられる訳ではない。
負担を増やさず、効率化によりこれを実現するのである。

税負担は、所得税や法人税、消費税などさまざまな税金をトータルで、税負担率というが、
税負担率をAの場合30%とすると、可処分所得は200G×70%で、140Gとなる。
Bの場合は税負担率を65%にしても、可処分所得は400G×35%で、140Gである。

この時、Bの4人世帯は、人数に対して可処分所得が少ない計算になるが、そこは、4人世帯の税金に扶養者控除等を設けて税率を下げ、少人数世帯は税率を上げる。
更に、税率を上げた少人数世帯からの税金の一部を、多人数世帯に支援金(養育手当て金など)として配布する事で、全体のバランスをとり、一人当たりの可処分所得額を補償するのである。

報酬が多くなるなら、税負担率が上がっても生活水準(可処分所得)は変わらないのである。
逆に言うと、税率を上げる時とは、労働力が減った時、それに伴って生産効率を上げ、労働力一人当たりの報酬が増えたとき以外ないのだ。
報酬が変わらないのに税負担だけが増えるのは、どこかに矛盾やひずみがある社会構造だ。

人口が減って経済規模が縮小した場合、政府・自治体など公共サービスの規模も縮小しなければならない。
体が小さくなるのだから、頭も小さくならなければ、全身に満遍なく栄養を行き渡らせる事ができないのだ。

・・・・・・つづく
少子高齢化社会の問題点について、一般的に言われている事で、“おっさんライダー”が、いつも疑問に思っている事がある。


高齢化社会になると、労働力(就労者)一人当たりが支える非就労者(高齢者等)が増える。非就労者(高齢者等)を支えると言う事は、負担を増やさざるを得ないということである。

と言う話しである。果たしてそうなのだろうか?


過去には、労働力(就労者)一人当たりが支える非就労者(高齢者等)の割合は、6人(8人?)に1人だったのが、将来的には2人に1人を支えなければならない。だから、負担が重くなる。と言った内容。
これを聞くと、収入に対して高額の負担を必要とし、大変な社会であるように見える。
政府はこれによって、増税や社会保険料の増額を、正当化しているように思われる。

これがどうにも納得できない。過剰に危機感を煽っているように感じるのだ。

そもそも、人が生活に必要な一人当たりの需要(支出)が変わらないとした時、高齢者(の割合)が増えても需要は減らない筈だ。
であれば、その需要を満たす必要があるなら、その生産量も減らない。
負担増(需要増)には、必ず収入増(供給増)が伴う
はずだと思うのだ。


生産量が減らず、物価が変わらないとしたら、高齢化しても経済規模の合計に変化は無い。
総人口が減り経済規模が縮小しても、一定収入に対して負担が増えるのはおかしい。


高齢者が増えると医療費が増えると言うが、医療費がどこかへ消えて無くなる訳ではなく、その増えた医療費は、関係する労働力(就労者)に支払われ、企業やその就労者は報酬から税を支払う。
これは経済規模にも反映される訳で、需要が増えるなら、生産(供給)も比例して増える。

供給を増やす必要があるなら、そこに必要なのは労働力(生産力)である。


高齢者(非就労者)が増えることで、労働力が減少するので、付加価値を高めなければならないという意見があるが、それはおかしい。

高めるべきは生産効率
であって、付加価値ではない。
更に、労働力が減って生産効率が上がると、就労者の収入は増えなければならない。就労者の収入が増えれば、負担割合を増やさなくても税額は増える。

また、国民が国家への要求を広げなければ、原則増税の必要があるはずは無い。
例外は、公務員・官僚・政治家など、税金から報酬を得る者が、経済規模の増減を無視して、その報酬を増やそうとする場合だろう。
つまり税負担の割合が増えるのは、経済規模とリンクしていない為だ。


これは、頭ばかりが大きくなって血が頭に昇り、末端の血管に血が流れなくなる状態だ。
本来、政府(脳)は特定の臓器(富裕層)に多く流れる血液を、満遍なく末端にまで行き渡るように、コントロールしなければならないのだ。


・・・・・・つづく
“おっさんライダー”は、経としての法華経(名詞)と、
その中に書かれてある法華経(形容詞=妙法蓮華)とは「別である」と主張した。

ちなみに、ある方のご意見では、法華経には三種あるそうです。
①真理そのものと言う意味での法華経(法身仏=真理=真理としての法華経・・・月)
②その真理を示すものとしての法華経(報身仏=智慧=諸仏の説く法華経)
③言葉に変換した経典としての法華経(応身仏=方便=経典としての法華経・・・月をさす指)
となっているとの事です。

“おっさんライダー”は「別である」としある方は「別であり3つある(上記)」と言われています。
この二つは矛盾しません。
そして、“おっさんライダー”は、②を大乗仏教としたのに対し、ある方は違うと言われています。
ただ、その方のこの主張を否定する為の証拠は“おっさんライダー”にはありません。推論のみです。
なので、このことを言及してもしようが無いのですが、重要なのは、先の「別である」と言う点です。

さてここで、仮にある映画を譬えに出して見よう。(異論はあるかもしれないが、あくまでも譬えで。)
①この映画を見ると、無垢な愛を感じる。
②映画『世界の中心で愛を叫ぶ』
③この映画を紹介し絶賛する映画解説
頭の番号は、三種の法華経(上記)に対応して譬えている。

「法華経第一」「法華経が唯一真実」と言っている教団の多くは、その主張の文脈と、信者に読誦させたり写経させたりすることから察すると、「法華経(名詞=③)第一」「法華経(名詞=③)が唯一真実」と言っている。
しかし法華経が複数(三種)ある時、法華経だけを読誦してどれほどの意味があるだろう。
映画解説はあくまでも解説であり、それ自体を朝に夕に読んでも、何かの効果があるとは言えない。
やはり本編を見なければ、その映画が語る本来のメッセージは感じられないはずだ。
「その映画がいかに素晴らしいかを、その映画解説は教えてくれる。」・・・としてもだ。

結局、映画解説を読んで、その映画を見た気になっているだけである。
そして、教団はその映画解説のみを読ませ、勝手な(本編とは違う)解釈を加え、信者を集めているのだ。
小乗(原始仏教)がどういうものかを知らずに、声聞である弟子が大乗に目覚める流れを理解できるのだろうか?
経としての法華経(名詞)だけを信者に伝えている教団は、
本来、法華経(形容詞=②)を学ぶことを薦めているのに、法華経(③=名詞)と勝手な解釈を一所懸命学んでいるだけだ。

経としての法華経(名詞)と、その中に書かれている法華経(形容詞=妙法蓮華)とは
「別である」と言う視点に立たなければ、法華経(仮にこれが真実だと言うとしても)の意味は伝わらない。
(この視点に立つなら、無理をすれば法華経(名詞)全体が譬えになっていると言う解釈も許容できないことは無い。)
何にしてもこの経が語るのは、「法華経(形容詞)第一」であって、
「法華経(名詞)第一」では無いのだ。

経としての法華経(名詞)は、法華経(形容詞=妙法蓮華)が説かれている様子を描いている。
法華経(名詞)が永遠の過去から説かれていたのではなく、法華経(形容詞)が説かれていたのだ。
そうでなければ、文脈は矛盾している。「別である」ことを説かず、勝手な解釈を加える教団は、
真実とは言えないだろう。

※注
この一連の記事は、あくまでも“おっさんライダー”が正しそうだと思っているに過ぎない解釈を述べたもので、
専門家などの裏づけや検証は行われていません。
興味のある方は、ご自身で十分な検証の上判断してください。

この一連の記事は、以前Yahooブログに掲載したものです。
こちらには、複数の方からのコメントも戴いていますので、興味があればコメントも含めてご覧ください。
法華経を信仰する方々には、さまざまな立場の方がおられる。
頑なに「釈尊の直説である。」と言われ、入滅までの8年間に説かれたと言う、天台大師の説を支持する方がいる一方、中には現在の学説との矛盾も解消されるような、合理的な解釈をされる方もおられる。

がしかし、“おっさんライダー”は、そのどちらにも納得できないでいる。

まず、日蓮上人は「法華経(他の経典も全て)は、釈尊の直説である。」を前提にしていたのではないだろうか?
(鳩摩羅什や玄奘三蔵などの、経典を中国語訳をした僧達も、創作されたものだと考えていただろうか・・・。)
直説であることをベースに、現在の法華経に対する解釈や評価は、長い歴史を経ながら積み上げ、組み立てられてきたと思う。

更にそうやって積み上げ、組み立てられた法華経の解釈や評価をベースに、
学説などによって明らかになった、紀元後の法華経成立を導入しようとしても無理が生じる。
(個人的にそう感じる)
では、法華経が“全体として譬え話になっている。(予めそのつもりで書かれた)”を前提に解釈を進めたとしてら、現代人でも、一定の筋道の通った(と思われる)理論を組み立てることはできるかもしれない。
しかし、視点を変えてもう一度考えると、そもそも法華経の創作者(達)は、
“全体として譬え話になっている”事を意図したのか?と言う問題が出てくると思うのだ。

龍樹にまつわる逸話(バラモンと対峙した際、呪術によって六牙の象を神通力によって作り出したなど)
を考えるとき、法華経で描かれる壮大なスケールのストーリーは、創作者(達)にとっては、
偉大なる師ブッダを語る際、「現実に“有り得る”エピソードとして書いた。」と考える方が妥当ではないか?
創作者(達)の視点に立つとき、そうでなければ法華経の内容に権威を与えることができないと思うのだ。

当然、法華経は当時「釈迦の弟子たちによって代々伝承されて来た教えだ。」と言うポジションだったと想像する。
であれば、最初から「全ては譬え話ですよ。」と言わなかっただろうし、そう思わせたくなかったはずだ。
全ては、現実に起こった(と思わせたい)エピソードであり、そうであれば、
その裏に込められた何らかの意図を想定したものではない。
“全体が譬え話”は、当初の「釈尊の直説である。」から始まる(誤った?)解釈の、延長線上にある。(と思う。)
つまりは、あくまでも経の中で、七つの譬え話として語られたことだけが、譬え話なのだ。(創作者の意図として)
しかも法華経創作者(達)が、自説の解釈(大乗仏教?)の正当性を主張するために、生み出された経である。


そして、特にここで断っておかなければならないのは、
当時の創作者(達)には「だからと言ってそこに悪意があるとは言えない。」と言う点だ。
現在、多くの法華系新宗教・新新宗教教団(一部の伝統仏教組織も含む)が、
「唯一真実」と宣言し、法華経を悪用している点は注意しなければならない。
自身の都合に合わせて解釈を曲げる者達を、見極めることが必要なのだ。と言いたいのだ。

“おっさんライダー”自身が、マイナーな新宗教教団に勧誘された経験があり、
その教団を知るに従って、矛盾を感じ、勧誘者にそれを指摘したものの、聞き入れられることが無かった。
勧誘者は、自分にとって大切に思う人だったが、意見の相違から拒絶されてしまった。

その後マインドコントロールに関する書物も読み、更にその危険性を感じた。
可能ならば、宗教を悪用する団体はなくなって欲しいが、だからと言って直接抗議はやはり危険を伴う。
このブログで語ることは、ちっぽけな自分にできる、ささやかな抵抗だ。

法華経系のカルト教団は、そこに書かれている「みだりに開示せず」を利用して(いや、悪用か)、
排他的に信者を囲い込み、外部の批判を受け入れない体質になっている。これもまた問題なのだ。
逆に言うと、外部からでは把握しづらいからこそ、法華経が悪用されていると言えるかもしれない。

だからこそ、カルト教団の信者は狂信的・妄信的になるかもしれないし、
カルト教団は、信者をそのようにコントロールしていると思えるのだ。
そもそも、法華経が仮に正しくなければ「みだりに開示せず」を気にする必要も無い。
それよりも、特定の人の内部だけで語られることこそ、悪用される原因だと思う次第である。