数学とは素直さと想像力の芸術である。。。


なぁ~んて
知人のS君が言っていたけど

↓こちらからの引用ではないのか?
とは決して言わなかったワタクシです。
(ありそうじゃない?)


博士の愛した数式/新潮社




※この作品は↑素晴らしいと思っています。



さて。。。

かつて、次女が小学校にて(教科専任制)
数学科の先生から
どういうわけか
詫びの文体の手紙をちょうだいしたことがある。

何故
どういうわけか
なのか。

年季の入った教員なのは見た目だけなのか?
(こらこら!)

Mちゃんは(次女の名前です)
文章問題が得意で
計算問題(簡単な繰り上がりや繰り下がりの筆算)などで
間違う事があります。
20問の計算問題のうちだいたいは2問程間違います。
申し訳ございません。

↑こちら小2の時

誉めてこそいただいても
どうして~申し訳ございません~なのか
それともワタクシの理解が乏しかったのか
度肝を抜いた。
抜いてしまった。。

よりにもよって
学校からの連絡だったのが
なんというか・・・残念な気持ちになったのだった。

どちらかというと・・・・現代・・・子を持つ親の
よくあるお悩みコーナー
といえば

計算は得意なのですが
文章題になると苦手なワガコをどうしたらよいでしょうか。。。

的なものが多いのではないか。

誰にだって苦手くらいはあるものの
(それから程度も様々だけど)

小1や小2のお子様達が
計算は得意で文章題が苦手
ということについて
ずぶの素人でも
理由は簡単に見つけられると思う。

全国的な
幼稚園の小学校予備校化
によって、自然体験や群れ遊びの機会を削ってまでも
とり行われる

算数と名打った
記号と化した数字への計算練習を
多くした、だけのことではないか?

免疫的にしみついた
(乱暴な言い方をするとロボットみたいに)
これは数字への瞬発力や感受性、それから集中力
なんて使い方で

やたらめったら~小さい小学生~を増産する現状。

一方
様々なラインから
おや?
まてよ?
~これではいけないのではないか~と

変革あるいは原点回帰していく専門家も存在する。
(けど、こちらの方がレアケース。)

保育と教育は
繋がっているけど同じではない。

というのは周知の事実。
にも関わらず
大人達は
保育期のちびっ子達に
必要な事を削ってまでも


小学生時代の
最初のうちの安心感
を選び取る。

計算問題二十問あるうちの
2問を間違う
程合いの次女を(何度も申しますが当時7歳)

ワガコ贔屓ではなくて
~何がいかんのじゃ?~と思うのでした。

大多数の巻かれるのか?
と、おばはんベテラン先生に哀しく問いたくなるのでした。

間違って、正して習得していく。
あ、勘違いしていた、
とか
あ、慌ててしまった、
とか
自分の気持ちとの向き合いを覚えていく。

たっぷり遊び
たっぷり読んで
わんぱく、おてんば
をしたちびっ子達が

培った想像力と素直さで
文章題~何が聞かれているのか~
に強くなっていくのは当然の事。

計算がいらないとは思わないけれども

算数オリンピック委員会理事の高濱正伸さんの
お考えを借りると

そんなものは
いろはの”い”

一世を風靡した百マス計算についても

そのものが不必要だとも悪いとも思わない。
けれど
それらを素早く解くワガコをみて

算数で困らない
だとか
集中力がある

などと捉える親心理が問題なのだと
氏は指摘されていて

うなずきすぎて
脳が揺れましたワタクシ。

あくまでも
今現在の子育ちシーズン(小学校低学年)
のうちは

計算問題で一問も間違わない(=そればっかり訓練してきた未就学時代)
ことよりも
文章題で目に見えないものを頭の中で組み立てて想像する(=たっぷりホンモノ体験をしてきている未就学時代)

の方が、先行きは明るいのではないか?

などと思うのでした。

どちらかというと
目に見える、今の今の快感、達成感によって浮かれる保護者を
(ワガコが出来ると思い込んでしまう)
たしなめるのが
ベテラン教師のお仕事だと考えていたところがあって

長期的展望で
壁にぶちあたり、それを越えていく力があるのが
どっちタイプなのか
を、指導くださるのが先生の立場なのだと
思っていたワタシは、目から鱗だったのだ。


一方
とうの本人は(現在小4)
~算数が好きになってきた~
と、
やや複雑化した問題を
~時代が来た~とばかりに
愉しんでいる。

計算のケアレスミスも減ってきた。
(量をこなせば誰だって出来る)

様々なご方針があって然るべきだと存じますが
沢山ある(カモシレナイ)選択肢のひとつとして

幼少期に幼児として過ごす事に専念する

というものがひとつ差し加えられますと
ちょっと。。。嬉しいそこいらの主婦なのでした。



おまけ・・・・・

ところでこの問題(実際にあった文章題)どう思う?かな?

みかんを3と1/5kg買ってきて、2と3/5kg食べました。
ところが、となりから1と2/5kgのみかんをもらいました。
今、みかんは何kgあるでしょう。




"akiぃ、あのね。。。。"

"なぁに?"

"ひとからいただいたみかんを、測りではかるって・・・"

"うん。。そういう、やらしぃ人にはなりたくないねぇ”

"うん。そだね"


次女、素直さと想像力が豊かに発育中。

それにしても
現実では見かけない
風変わりなキロ表示だね。

それではまた。。。。


 

すべる話があって すべらない話がある。

ポジティブさを知るためには
ネガティブさを知らなければならない。

冷静さを自覚するのは
情熱的な自分を自覚しているから。

か、どうかはわからないけれども (今、思いつくままになんとなく書きました、ごめん)


少し前

お風呂からあがった長女11歳が

”aki なんかお風呂暗くなったね”
などと申すので

電球のひとつもチラつきだしたのか?と思ったら

”百人一首って全体的に暗いね” と言うのであった。

現在我が家のお風呂の壁には

↓こちら





おぼえやすい百人一首 (キッズレッスン)/ジェイティビィパブリッシング
 が貼ってあるのだけれど

(当然ながら)百首ある小倉百人一首、謳った人と、それから現代語訳もついていて
バスタブ時間がわりかし豊かな時間になる。



まず次女8歳が(9歳になったけど)

後京極摂政前太政大臣
(ごきょうごくせっしょうさきのだいじょうだいじん)

”名前長いって!!”

と言いつつも

どういうわけか

歌そのものではなくて

昔の人のながぁ~いお名前をあれこれ覚える事に

へぇ~

と思ったママン。


法性寺入道前関白太政大臣
(ほっしょうじにゅうどうさきのかんぱくだいじょうだいじん)

もう殆ど早口言葉。
噛まずに言えるかどうかにムキになる次女。

言えた後の満足げな顔。

それにしても

役職名が長いのであって
本人の個人名がいっこもわからないなぁ・・・などと思っていた頃(こら!)

長女が↑
百人一首の歌が
(特に男性)

暗いんじゃね?ということを投げかけてきたのである。

薄々、いや
皆一度は感じたことがあるのではないか?
という、あの女々しさ。

for example(ふぉー いぐずあんぽー)


   崇徳院
(すとくいん) 
のこの一首を取り上げてみませう。。。


瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の われても末に あはむとぞ思ふ

意味→浅瀬の流れが速くて、岩にせき止められている滝川が2つにわかれてもまた合流するように、仲を裂かれて別れさせられても、将来はきっと、必ず逢おうと思う。

。。。現代だとス○ーカー禁止法にひっかかります。お気をつけて。


続きまして

  後鳥羽院
(ごとばいん) 
のこちら

人もをし 人も恨めし あぢきなく 世を思ふゆゑに もの思ふ身は


意味→ひとを愛しくも思い、恨めしくも思うのです。思うとおりにならなくてつまらないと、世の中を思うから、いろいろと思い悩むのですよ。

。。。歯がゆさも人生の妙だってば!


もうひとつくらい失礼致します。

二条院讃岐
(にじょういんのさぬき)    女性だから贔屓します。



わが袖は 潮干に見えぬ 沖の石の 人こそ知らね かはくまもなし

意味→わたしの袖は、引き潮のときにも海のなかにあって姿の見えない沖の石のように、誰に知られることもなく、恋の涙で乾くひまもありません。

。。。恋はあなたのすべてではない!



そんなこんなで
太古の日本人から受け継がれる

しっとりと落着いた、時に情念に満ち溢れ激しい想いのほとばしる

すばらしい作品群を

それぞれに詠み親しみ
感慨にふける

入浴時間なのでした。

長女は
~どうしてそんなに哀しい恋をするのだろうね?~
とか
~愉しい恋を歌にしたいものじゃないのかな?~
とか

恋の季節の手前の今

日本人の悲恋の美学に
驚きまくっている様子。