シンカに至るストーリー ー センセイたちと、できない勘違い | ​ 観るチカラを、生きる糧に。 ー SCREEN(私設)研究所

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観る映画が、あなたの、わたしの、人生のヒントになる。
ここは、SCREEN(私設)研究所。

潜在数秘術×映画で
「観る」ことと心の関係を
映画を通して読み解いていきます。



(↑ こんな感じの、もっと年季の入った木造校舎でした>小学校)


家庭内は相変わらずの荒れ具合で
学校生活は、いろいろと出来ないことを知る毎日


先生たちのこと。


入学直後、教頭センセイが言った
「今年の1年生は最低だ」
それから6年間、毎年言われたこと覚えてる
今年の2年生は~
今年の3年生は~
4年
5年
6年と
ずっと。

だいたい
「最低」か
「最悪」か
どっちかを言われてた。



1年か2年のころ
「トイレ」と言えなくて授業中おもらしした時。
保健のセンセイか担任のセンセイか忘れたけど
私の顔を眺めて「何で言えないのかしら」とブツブツつぶやいてた。

給食食べ終えるまで監視してるセンセイの顔。
(この辺から、センセイアレルギーは来ている気がする。)


楽しい思い出、ないのか?わたし?


4年生の時、「キョウイクジッシュウ」のセンセイが
学校を去る日
みんなでアーチをつくってお見送りをしたら、そのセンセイ
私の左手にキスして、うやうやしく礼をして去っていった。
私はキョトン。
(いまどきなら、セクハラかしら?)



工作の時間に、近所の神社を描いて、褒められた。
5年生、音楽クラブで初めての作曲。
鼓笛隊でアコーディオンに立候補。誰よりも先に曲覚えた。
硬筆書写で、なんか賞もらった。
…うーん、楽しい思い出って、楽器がらみ?


体育の時間は相変わらずだったけど
唯一、褒められたことといったら、ドッチボール。
体小さいのと、かけっこビリでも逃げ足は速い?のか、いつも最後まで残ってた。


そして、5年生くらいになったら、突然
逆上がりちゃんとまわり
25メートル泳ぎ
跳び箱一番高いのまで飛べた


へ?
あのー、できなくって散々イヤな思いをしたのは、なんだったの?
ぐらいの軽さで、あっさりできた。


まぁ、そういうの何年越しでできたって
もうみんなは当たり前に出来てることだから
特にほめられるでもなく。みんなスルー。

センセイに「背、伸びたね!」と言われ
はぁ。そのせい?
そういうもんなの?と
よくわかるようなわからないような納得をしたという。



6年生は
子ども会のリーダーやってた。
(この頃から、既に雇われ?というか
 やりたいヤツいないからやらされるという位置ねw)
夏休み最終日のキャンプファイヤーで
紙芝居の出し物をつくって準備してたのに
私だけ熱出して欠席。

風邪を引いても
熱を出すってことがない子が高熱出したんで
珍しく母がつきっきりだったのを覚えてる





そうそう
それともうひとつの名前。

祖母が家に来て
オルガン弾いて歌ってくれた後
母が私を生んだときの話をしてくれて。




祖母が考えてたという
私の名前を教えてくれた。
「春恵」
という名前を考えてたそうな。



ばあちゃん、チハルだから
「ハル」入れたかったのね。
予定日は4月だったしね。
・・・と、今ならふんふん、へーと
聞いていられるけど

その当時は相当ショックで



え?
はるえって、なに?
わたし、さなえじゃないの???


ぐらいのショックだった
グラグラ揺れたみたいです。(つづく)▷▷反面教師とワガママのお手本