Episode.13 "天沢履"
あの日のことを思い出す度に将吾の頭は熱を帯びる。まるであの日の感覚までも無意識に思いだそうとするかのように。
本当にあの日はうだるように暑かった。直視しようものなら瞳を焦がしそうな陽射しが身体を貫き、熱気で汗が吹きだすのを自覚する度に嫌々手伝いに駆り出された屋台での調理を思い出す。尤も感情移入できるのは雰囲気に流されて少し陽気になれたあの時の自分ではなく、目の前で焼かれていた小麦粉とたこ足の方だが。
冷える要素があるとすれば入念に散布した制汗剤がどれだけ効果を発揮しているかという疑念と心労くらいだ。尤も、たこ焼きと違って自分が焼かれても出るのは香ばしい臭いではなく男くさい汗で、柄にもなく心配したところで冷や汗が出て堂々巡りが加速するだけだが。遂には手汗が気になって、ゆるく繋いでいた手を離しそうになる。
「どしたん?」
「いや、なんでもない」
「そっか、そっか」
大野大河がずいと顔を近づける。鶴見将吾が逃げるように顎を引く。何度も繰り返したこのやり取りだけで二人の関係性を表すには十分だ。一週間前の金曜日を境に以前より距離感の近いステップに進んだ歩幅も完全には揃っていない。その自覚は将吾にもあったが対応するには経験値があまりに不足していた。
前より距離感が掴めなくなっている自分がいる。対等に向き合えるのは部活で竹刀を向け合ったときだけ。表立って公言はしていないが剣道部の連中に隠しきれている自信もない。
なまじ認識だけは出来ているから精神的ダメージはハイペースで蓄積される。恋は盲目どころか猛毒。それも随分依存性の高いタチの悪いやつだ。
「いやーそれにしても本当暑いね。手汗が酷いのなんのって」
「あ……やっぱりそうか」
「えー、バレるほど酷かった私?」
「あ、いや、悪い。違うんだ」
「冗談だってば」
そんな自分と違って飄々とからかってくる大河が少し恨めしく、その何倍も愛おしい。どう足掻いても叶わないと思い知らされる度に、そういう大河だからこそ好きになったのだと再確認させられる。
「どこか入って休もっか。今日ばかしは奢るのも吝かではないので」
「面子を真っ先に潰そうとするのはやめてくれ」
「いやいや気にしなさんなって。私もこんな日に私情で連れ回して悪いなーと思ってたし」
「妹さんの誕生日だろ。俺も世話になってるから貸しにはならない」
「やや。意外と強情だねぇ、旦那」
「そっちも大概だろ。せめて割り勘な」
「おけおけ」
そもそも勝ち負けなどどうでもいい。乗り掛かった舟の船頭の指示は守るべきものだ。涼しいところでゆっくりしたいことに異存はないし、最低限プライドが守られる点まで譲歩できたのなら十分だ。
本当に暑い。隣に恥部を晒したくない相手がいなかったらおかしくなっていた。そう確信する程に思考が鈍って仕方ない。
「……んん?」
「どうした?」
「いや、あそこの人……ちょっと見てくる」
大河の視線の先には地面に蹲って低い呻き声を上げている男が一人。どうやら暑さにやられている輩は他にもいるらしい。無駄に面倒見のいい大河はスポーツドリンク片手に駆けていく。――そこから先の数秒間は後の将吾にはコマ送りでしか再生できない。
しゃがんで肩を叩く大河。男はその手を乱暴に払いのけ、彼女が突き出したスポーツドリンクは内容物をまき散らしながら地面を転がる。とくとくと流れる清涼飲料水。どくどくと流れる大河の血。フォーカスを戻せば蹲っているのは大河の方で、立ち上がった男は血塗れの包丁を片手に奇声を上げながらどこかへと走っていく。
事態を認識するのに十秒。身体を動かすのに二十秒。駆け寄った先には息も絶え絶えな中で必死に口を動かす大事な人がいて、その人を助けたくとも実際は何もできない自分がいた。そんな自分には自分以外の誰が何をしているのかも分からずただ状況に流されていくしかなかった。
明確に意識が戻ったのは葬儀から三日後。休みを取って半ば引き籠っていた自宅に鳴り響いたインターホンが嫌に耳に残る。あいにく両親ともに仕事に出ているため自分がいくしかない。
重い溜息を吐いて渋々玄関を開けた先で待っていたのは一人の女子小学生だった。ただ短く切り詰めた髪や少し赤らんだ顔の輪郭には嫌でも見覚えがある。何より前髪を留める黄色のヘアピンはそれを真剣に選ぶ姿を間近で見ている。
「もしかして……寧子ちゃん」
「はい。髪を切ったんで分からないかもですけど……少しでも似合うようにって。どうですかね。いいですかね。いいといいなぁ」
おどおどしている姿は家に招待されたときに何度も見た印象と変わらない。それでも口調は前に見た時よりもいくらか明るく、彼女なりに割り切ろうとしているように見えた。
その上で参考にした理想像が誰であるかは考えないようにした。どうあれ彼女は自分よりもずっと前を向いている。それは三年経っても変わらなかった事実なのだから。
辺りに乱立するビルだったものを見上げて将吾は溜息を漏らす。折れた高層階は瓦礫と化しているため、最早どれだけの階層があったのかも分からない。その様が多くの事実が明らかになったにも関わらず、未だにどこか先の見えない自分に重なっているように思えた。
このビルの残骸でもまだマシな方なのだろう。建造物の多くが瓦礫に変えられ、アスファルト舗装が砂地に思える程に徹底的に踏み砕かれた。人類の大半が地上から追放されたこの未来に、自分はどの面を下げて立っているのだろうか。
「廃墟マニアとは意外な趣味だね」
「あんたは趣味が悪いな。監視の真似事か」
気遣いとも思えない冗談めいた言葉に剥き出しの嫌悪感で返す。いつから鈴音は自分を見ていたのか。将吾自身、自分は好奇心で動いているような物好きに目をつけられる愉快な性格はしていないと思っている。
「忠告しに来ただけだよ。選択したことも迷うことも間違いじゃない。ただ覚悟は決めておいた方がいいってね」
「どの立場で物を言ってるんだ」
「そうだね……監視の真似事ってところかな」
監視されるべきはお前だろうと悪態をつく気にもなれない。その神経の太さがあれば楽になるだろうが、不思議と羨ましくも見習いたいとも思わなかった。
それでも忠告も介入も拒みはしない。見透かされているような視線があるおかげで意識せずとも襟を正せる。
「――どこの女狐かと思いましたけど、鈴音さんならいいですよ。サルミアッキの借りってことで」
寧ろ今向き合うべき相手にはこれくらいのハンデは許して欲しいと思うくらいだった。
「覚悟があるなら明日の十八時、ここに来て欲しい」
Xに見逃されて逃げ帰ったあの日、パトリモワーヌに再招集されたトラベラー達の前で巽恭介はそう告げた。己の立ち位置を再定義したうえでのXと同じ問い掛け。その言葉にはまとめ役として慕っていた人格者のものとは思えぬほどに圧があり、彼の選択に対する疑問も現実逃避の泣き言も口にすることは許されなかった。
「分かっていたけど、随分寂しくなったね」
翌日、指定時間。パトリモワーヌに訪れたのは巽恭介含めて八名。
ここに来ないことが自殺行為になる弟切渡。恋人の死を無かったことにしたい鶴見将吾。報酬に興味がない筈の逢坂鈴音。慕っていた組長殺害の罪を擦り付けられた元ヤクザの射場正道。弟の死を覆したい真壁悠介。目の前で飛び降り自殺した後輩の真意を知りたい天宮悠翔。トラベラーとなった幼なじみを止めたいと願っていた瞳に黒い炎を灯す星埜静流。
「こんなもんでしょ。集まるのはエゴイストと自殺志願者くらいだ」
「残りの内何人がリタイアを選んでいたとしてもまともにやり合える数が残るとは思えないからな」
今ここではなくレジスタンスの元に居る面子にはリタイアを選んで欲しいと思うのも結局はエゴでしかない。短い時間でも協力して行動をともにした相手と命がけで戦うのを嬉々として待ち望むような戦闘狂はおらず、未来の人々を守るという大義の元に振るわれる怒りと正論に自ら身を晒せるマゾヒストも居なかった。それでも悪役じみた立ち位置に身を置く理由と覚悟なら持ち合わせているつもりだ。
「戦うのなら頭数は居るでしょうね。合流できる他のトラベラーに当ては?」
「心当たりがないわけではないけど……ルートとやらも黙ってはいないと思いたいね」
数日前まで仲間だった相手と戦わなければならないと言うには戦力差は対等からは程遠い。対抗するのならコミュニティの枠を超えてでも他のトラベラーを集めるべきだ。とはいえ、コミュニティの外のトラベラーは顔役であった恭介の人脈だけでは決定的な戦力の補強にはならなさそうだ。
アウェイな世界でゲリラ的に首を狙うしか無くなるのは避けたいが、自分達の人脈以外に頼れるのは最早この件の黒幕――自分達を呼び寄せて「X」と敵対させた「ルート」しかない。「X」を前に自分達を煽動する程度には意思があるのなら、自分の手駒が如何に貧弱かも分かっているはず。それでも手が無いのならそれこそ潔く全員リタイアさせてもらうしかなくなる。尤も敵がそれを許してくれるかは別問題だが。
詰まるところ、トラベラーに未来などないのだ。それでも捨てきれないもののために僅かな希望にしがみつく、楽観と諦観にまみれた生きる屍。いずれ正義の元に倒されることを薄々分かりながら戦いに臨むことになるだろう。
その覚悟を試される機会が早々に訪れることをこの時の将吾は知りもしなかった。――否、その可能性を考えることすら無意識に避けていたのだ。
容易に想像がつくだけの事実が揃っていたのに。誰よりもこの場に居てほしかった相手の姿はここに無かったのに。
だから、相手の方が痺れを切らして呼び出した。ここに至って将吾は自分にそれを拒む度胸すらない臆病者だと自覚することになる。