Episode.14 "ring a bell"
思い返せば昔から人から疎まれ憎まれることには慣れていた。好奇心旺盛な癖に他人の感情には無頓着で、ただ自分が望むことを自分のペースで為してきた。幸い要領もよく頭も回ったから大抵のことはそつなくこなせていた。だからこそ一番近いところに居る相手に敵意を向けられ、家族からの抑圧も相まって知らず知らずのうちに鍛えられてしまったのだろう。
詰まるところ、逢坂鈴音は自分のことがあまり好きではなかった。ただ欲求に従う様を狂人と呼ぶのならば、その定義に当てはめられて当然だとすら思っている。だからどんな末路を辿ろうとも後悔する資格はない。高潔な目的を持つことなども許される筈もない。その枷だけはX-Passを手にした時から変わらず根底にへばりついている。
当時の彼女にとっては異界へと繋がる通行証という噂話も、その先に居る願いを叶える存在の都市伝説も実在性が保障されていない浪漫でしかなく、興味は惹かれても入れ込むほどではいなかった。ただそれ以上に彼女は自分の環境にも執着を持てていなかった。だから他者と比べれば軽々しい動機とそれ以上に軽い経緯で一線を踏み越えることができたのだろう。
幽霊に誘われた。その説明でも大差ない程度には浅く冗談めいた出発点だった。
その日はサークルもバイトもなくただ暇を持て余していた。ただひたすらに退屈だった。気分転換になるものがあれば何でもよかった。
「買い物でもしようか。……ん?」
だから、ドアを開けた瞬間に視界を横切った白い人影を放置する理由はなかった。体格からして家族でも家政婦でもない。来客の可能性はあるが、屋敷の中でもプライベートな部屋が並ぶ二階に踏み入る程に信頼された相手で、白衣が似合うような人物は心当たりがない。
空き巣や強盗の類というよりは不審者。歩き方はあまりに堂々としている割りにどこか掴みどころもなく、気を抜けば見失いそうになる。
警備会社や警察に連絡する気は最初から頭にない。何かやらかすとしても咎めるつもりもない。ただ純粋な興味として白衣の不審者の正体と目的を探りたいだけ。その結果として自分がどんな不利益を被ろうと後悔はしない。
幸いというべきか素人の真似事の尾行でも相手はこちらを意識することなく歩みを進めている。廊下の端を左に曲がり、行き止まりに向かって直進。さらに左に曲がって進んだ先の二つ目の部屋の前で不審者は足を止めた。出発点である鈴音の部屋の対岸に位置するこの部屋が目的地だったらしい。
その部屋は半年前から定期的な清掃のとき以外は開かずの間と化していた。当然今も鍵は掛かっている筈だったが、どんな手品か不審者は住み慣れた自室に入るかのようにドアを開けて踏み入ってしまった。
「は……いやいやいや」
鈴音は慌てて全力で走って後を追う。尾行をしている自覚もなく、ただ不審者の目的を突き止めることを優先する。ドアにぶつかりそうになりながら急停止。一週間ぶりに開け放たれた部屋の奥で、不審者は学習机を愛おしそうに撫でていた。
「何を」
思わず口を突いた言葉を言い切ることはできなかった。先に不審者の姿が煙のように掻き消えてしまったからだ。
「は、はは……参ったね、これは」
まるで幽霊にでも化かされたようだ。今まで幻を見ていたにしても都合がよすぎる。後に残ったのは踏み込む気もなかった部屋に今更踏み込んだ恥知らずだけ。
久しぶりに足を踏み入れたその部屋は、全部屋の稼働率の低さに定評のある屋敷の中で比べればまだましな方だった。家政婦による定期的な清掃のおかげで目立つ埃もなく、家具や各種インテリアはほぼ変わらないレイアウトで安置されている。持ち主の数少ない趣味が開けっ広げにされているような状況でもそのプライバシーが侵害されることはないだろう。それを気遣いと呼ぶには鈴音は両親の無関心さを知り過ぎており、自分が時と場合によってはそれを利用する人でなしである自覚もあった。
ベッド横の本棚に積まれた漫画本や雑誌の趣味は合わない。寧ろ学習机の上に備え付けられた本棚に並ぶ教科書の方がまだ興味をそそられる。ただ今一番視線が引き寄せられたのは、机の上にぽつんと置かれた鍵とそれに貼られた付箋だった。鍵が勉強机の引き出しの鍵であることは、この部屋の勉強机が鈴音のものと同じ規格であることからすぐに分かった。
奇妙な現象に誘われたのか気が狂ったのかは最早どうでもいい。この部屋に踏み入れた以上その鍵に手を伸ばすことを躊躇うようなデリカシーなど捨てたようなものだった。
「『人でなしの君にプレゼント』ねえ」
それでも付箋に書かれた文字は癪に触り、思わず握り潰してしまった。自嘲するのと他人に見透かされるのは違う。ただ図星を突かれても止まれない程度に人でなしな自覚はあるので、付箋を書いた輩の思惑に従うことに異論はない。自分のものと同じ感覚で鍵を引き出しの鍵穴に挿して回す。後は引き出しの取っ手を引けば、これまでの気が狂った行動にも一応の決着がつくはず。
そこでようやく鈴音は自分の手が無意識に震えていることに気づいた。それでも驚いて取っ手から離すことはしない。ただ一度だけ唾をのんでゆっくりと開ける。
所詮は引き出しの中身。覚悟すべきものがあるとすれば所有者が隠したかった黒歴史の産物か異常性癖の証拠、或いは周囲への殺意を綴ったノートの類だと高を括っていた。
「これは……噂のアレ、なのか」
だから都市伝説の代物が鎮座していることには流石の鈴音も動揺を隠せなかった。
「もし仮に本物だとして、これは……いや、まさかね」
「――仮定を頭ごなしに否定するのはらしくないね。これはそちらの想像通りの理由と私思惑でこの部屋に存在するものだ」
「今度は幻聴? いや、確かにこのカードから聞こえている。先程の幻覚も同じ類いかな」
唐突に無条件に苛立ちを覚える声が耳朶を叩く。内容が自分を煽ることだと気づいたのは苛立ちの矛先を特定してからのこと。不意を突かれた事に対する恐怖も警戒心も湧かなかったのは、個人としての欠落というよりはそれらより先走った嫌悪感があったからだろう。
「危機意識が欠けてる代わりに話が早くて助かるよ。――さて、君好みの話があるんだが当然聞くだろう。逢坂鈴音」
癪なことにその声が語る内容は確かに鈴音好みの話ではあった。ただそれ以上に自分が人として決定的にずれていることを自覚させられることが何よりも癪だった。
「実は……その引き出しは二段底になっているんだ」
「なるほど……それは興味深い」
それは弱肉強食を前提とする世界ではあり得ないはずの光景だった。十を超える獣竜達が互いに等間隔になるように位置取り、口から鉄球を飛ばしてはそれをぶつけた何かを他の個体へと押しつける。ゴムボールのように奴らの間を跳ね回るのはアハトで、文字通り玩具として遊ばれているその様はあまりに悪趣味だった。
「邪教の儀式はそろそろ止めてくれないかな」
「何とでも言うがいい。バケモノと異教徒には慈悲を与えない主義だからな」
サッカーの試合でも観戦するかのようにくつろぐ晴彦の傍らには弓を番えた女天使。彫像のように静止しているように見えてその照準は傀儡の化物の間を回されるアハトを常に捉えている。下手に鈴音が動けばその瞬間に矢はアハトを仕留めるだろう。このまま何もせずにいても嬲り殺しにされるだけ。それでも今の鈴音には癪に触る説教を聞き続けることしかできなかった。
「邪魔者もなし。遠慮も不要。二人きりで腹を割って話そうじゃないか、逢坂鈴音」
「気持ち悪い程に気に入られたものだね」
「本気だとするなら相変わらず面白いことを言う。今すぐ火刑にかけてやろうか魔女め」
冗談めかして言った言葉もその目が笑っていなければ本心を見透かすのも容易い。瞳孔は開き、睨みつけるような視線には露骨な嫌悪感だけが籠っている。想定より仮面を崩すのが早いが、晴彦にはもう取り繕う必要がなくなったのだろう。
「最初から私は貴様のような私利私欲で動く輩が嫌いだった」
大の大人から真正面に嫌悪感をぶつけられる。一周回って新鮮な状況に鈴音は思わず吹き出しそうになった。同年代や身内に奇異な目で見られることには慣れていたが、いい年した裏切り者に感情論を振りかざされると流石に反応に困る。
「捻じ曲げたい過去もなく、ただ好奇心でこの場に居られると虫唾が走るのだ。視界から締めだす労力すら勿体ない。いっそ目と耳を潰せば楽になると何度思ったことか」
次第に晴彦の言葉は熱を帯び、自分が口にした言葉を噛み締めては次第に表情は陶酔したものになっていく。それでも傍らの女天使にすぐに指示を出せるようにX-Passに指を添える程度にはまだ理性を残している。
「私達はXの元、この未来に生きる人々のために戦っているのだ。ふざけた動機で同胞を踏みにじるような輩が居られると吐き気を催すのも当然だろう。だから貴様がこちら側に来なくてせいせいしたものだ。まあ、性根の腐った魔女が私たちのような高潔な選択が出来るはずもないがな」
独り言は演説のように仰々しく糾弾のように敵意を籠めて語られる。それは最初からレジスタンス側として動いていたが故に抱えていた誇りと憎悪。鈴音自身、彼からすれば自分のような人間が誰よりも癪に触るのは当然だと率直に思う。未だこの場に立つ理由を理解もしたくないだろうから。
「つまり、私とアハトを嬲り殺しにしたい、と」
「それはもう惨たらしく。折角の機会だ。愉しませてもらう」
晴彦が心の底から浮かべた笑みは聖職者としても悪に抗う戦士としても歪んでいる。仮に鏡がこの場にあったとしてもそれに気づくことはないだろう。そのことを鈴音は少し哀れに思った。
「それにしても貴様は随分契約相手のことを気にしているな」
「パートナーと書いて生命線だからね。当然だろう」
不意に晴彦が口にしたその言葉を鈴音は牽制だと捉えていた。それ以外のニュアンスが含まれていることに気づいたのは、晴彦の笑みがより嗜虐的なものになったから。
「そうかそうか。何もできずにただ虐められる様を眺めているのはさぞ苦しいだろうな。……だが、気に病むことはない。寧ろ貴様は喜ぶべきだ」
先ほどまでとは一転。気持ち悪いほどに親し気に語り掛けながら讃えるように手を叩く様はただ不気味。あまりにわざとらしい振る舞いは巣に掛かった獲物に近寄る蜘蛛を想起させた。
「霞上響花のような真似はしていないようだが、人語を介する以上は奴は既に人を喰ったバケモノに変わりない」
「引っ張らないでほしいね。結局、何が言いたい?」
モンスターは人を捕食すれば捕食するほど、人語を介したコミュニケーションが得意になる。それはアハトとナーダを比べれば一目瞭然だ。だが、そもそも一人も捕食していなければ人語を介することもできない。カインや月丹と違ってアハトが一線を越えていることも事実だった。
「奴の餌食になったただ一人の被害者を私は知っている」
「ァアア!! ヤァメゥグァッ!!」
何故パートナーでもない晴彦が知っているのか。ただの出まかせではないのか。その疑念を裂くようにアハトの悲鳴が轟く。夥しい数の裂傷と打撲痕を見れば、声を出すことがどれだけ負担なのかは容易に想像がつく。それでも叫ばずにいられなかった動機に思考を割いた瞬間から、その後に紡がれる晴彦の言葉に対する耐性が失われる。
「――被害者の名は逢坂観月。流石の私も驚いたものだ。契約相手の女を喰った挙句、半年経ってその妹と再契約しているのだから」
わざとらしいオーバーリアクションで告げる致命の一撃。貴様は今まで身内を捕食したバケモノに信頼を寄せてともに旅路を進んできたのだ。そう断罪するような言葉に鈴音は初めて顔を伏せる。言葉を返すのに十秒ほど掛かり、絞り出した声は僅かに震えていた。
「念のため聞くけれど証拠は?」
「我がレジスタンスにはモンスター固有の波長を記録し検知するデバイスがある。それで個体の特定は可能だ」
「アハトの前の契約相手が私の姉だという確証は?」
「君の話を本人から聞いていた。聞いていた通りの人間の屑で驚いたものだ」
「何故トラベラーになっていた?」
「さて、なんだったか……ああ、多分自殺した友人を助けたいと言っていた気がする」
「何故捕食された」
「そこのボールにでも聞いた方が早いと思うが。経過を見るに野蛮な飢えだろう」
「見殺しにしたのか」
「こちらも勧誘を保留されたままだったのでね。味方にならないのなら消えてくれた方が話が早い」
苦し紛れに糸口を探す言葉は淡々と弾かれる。その度に鈴音の声音は小さくなる。あれほど叫んでいたアハトも呻き声すら漏らさなくなり、ただゴムボールのように弄ばれる。
「好き放題言ったが、所詮は敵の言葉だ。嘘だと思いたいのなら構わない」
そう口にした晴彦の表情にはただ愉悦が浮かんでいた。出来る筈のないことを提案し、相手が無力さを痛感する様を眺めることほど悦に浸れることはそうそうない。それが会う前から気に食わなかった女相手なら尚更だろう。
「意地が悪いね。嘘だなんて言える筈がないのに」
大きくため息をついて鈴音は顔を上げる。この舞台を整えた時から、晴彦はこの瞬間を待ち望んでいた。心底不快な女の心をへし折ることが出来るこの瞬間を切望していた。
今の晴彦の興味はただ一つだけ。残酷な事実を前にした彼女は今どんな表情をしているのか。常に他者を顧みることなく余裕ぶって笑っていた表情がどれだけ醜く歪んでいるのか。
「――だって私は最初から知っていたのだから」
表情が大きく歪むのは晴彦の方だった。鈴音はどこか晴れやかな表情を浮かべながらただ真っすぐに晴彦を見据えていた。
「ァ……ス、ズ?」