パラグアイからの日記は、もうおしまいです。
今は、日本に帰国しています。

なぜなら、私の実家は南三陸町。
青年海外協力隊に行く前に、実家がこんなことになるなんて、
想像もしていなかった。
誰も、予想なんてしていなかった。
予想していたら、行っていなかったのか。
いろんなこと、考えています。

でも、生まれ育った町がいまの状況になり、
両親が一所懸命仕事していた魚屋もなくなり、
そして、2年間任期を全うして帰りたかった、帰るはずだった家がなくなり、
もう、耐えきれなくて、こらえきれなくて、
帰国する決断をしました。

誰かに読んでほしいとか、そういうんじゃなくて、
自分の気持ちを整理するつもりで書きます。

実際、パラグアイでの活動もかなり順調に進み、
いろんな活動が、予定、見通しが立っていたのも事実。
地震発生後すぐにパラグアイから1ヶ月間の一時帰国をし、
今までだったら、成田から宮城県まで、電車と新幹線を乗り継げば、
簡単にたどり着く場所だったはず。

それが。
成田に着けば、キラキラしているはずの空港が暗くなり、
閉まっているお店も少なくない、やっぱり様子がおかしい。
これが現実。現実だった。

待ちぼうけえをくらうのも、長い時間待つのもパラグアイ流で慣れっこだったけど、
基準を日本に合わせて考えると、やっぱりおかしい。

仙台までたどり着くのに、陸路では入れない状態だった。
家族が元気なのも分かっていたけれど、
ちゃんとご飯食べられているのか、不自由な事起きていないのか、
いろいろと頭の中に巡る。

ちょうど、松戸に住むいとこ達がいるので、4日間お世話になり、
やっとこさ、新潟経由でバスが確保できた。

池袋から新潟まで夜行バスで移動し、
そこで岩沼に実家があるお姉さんと出会う。
道路が凍る新潟で、たくさんの荷物を持ちながら話す。

「仙台目指すんですか?」
「そうなんです~。岩沼です。」
(なんか、目指すって言葉、近いはずの場所に使うイメージがない。
このときは、行くってよりも、辿り着くぞーってイメージが多かったなぁ。)

「家族とか無事なんですか」
「兄が、明日火葬なんです。。。」
「お兄さん、見つかってよかったですね。そして、火葬できてよかったですね」

不思議と、みんなで晴れ晴れした感じで話していた。
こんな会話知らない人とすると思ってもいなかった。
こんなこと起きなければ。

何事も経験してみないと分からないことだけども、
本当に、こんな会話が事実だった。

人間、悲しんでいる場合じゃないことが重なると、
つまり、想像を超える状況が頭の中にたくさんあると、
冷静になれるんだと、平常になるんだと思った。

思考停止じゃなくて、冷静になるんだって。
冷静になれるんだって、ね。
みんなで、笑ったな~。びっくり。

まだまだ、現実を見えていない我ら。
家が無くなるという事、
思い出がひとつも残っていない事、
まだまだ計り知れない事が待っていること、
分かっていませんでした。
この時までは。

がんばらないと。
パラグアイでの生活を止めてきて、
パラグアイでの活動を止めてきた、
この決心を、宮城でチカラに変えたいな、と思う。

あぁ~、でも、うちの母ちゃん
凄すぎる。
毎日、怒られている。私。
だめだな。。。

つづく。