地震発生、
パラグアイから一時帰国、
東京で待機、
仙台へ移動、
仙台から南三陸町へ。

もう、パラグアイから出発するときには、
テレビの映像で、もう自分の実家が無い事を確認。

でも、自分の目で確かめない事には
現実を受け入れられない。
きっと、父ちゃんと母ちゃんも一緒だろう。と、
思いながら、出発ギリギリまで日本へ持って行く
物資の整理をみんなに協力してもらいながら
パラグアイを出発しました。

一緒に行った、ゆっこと途中、
飛行機の中で号泣したり、
寝たふりして涙が止まらなかったり、
アメリカの入国審査で待っている時の映像で
また号泣したり、
私は、家族が無事という事がすぐに確認取れていたのですが、
一緒に帰国したゆっこは、ニューヨークに入るまで
家族と連絡がとれず、本当に二人とも、
精神状態が不安定でした。

自分の生まれ育った町が飲み込まれる、
誰が生きていて、誰が生きていないのかも定かではない状態。
こんなことが、自分が生きている間に起きるとは思っていなかった。

地震に対して、教訓を生かして、
町作り、避難訓練、とにかく注意を払っていた町だったのに。

だれが想像していたか。

まずは、家族が無事で、元気に南三陸町で避難生活を送っています。
西城魚店の家族は無事です。
うちのとうちゃんと、かあちゃんが好きで
通ってくれたお客様、宅急便を使っていただいていたお客様、
あの父ちゃんと、母ちゃんは無事です。
でも、あの店はもうありません。
産まれたときから皆さんに目をかけていただいた、
あの店は、もうありません。
父ちゃん、母ちゃん、妹二人、家族5人で、お店を探しましたが
もうどこにもありません。
写真も、看板も見つかりません。
こんなこと誰も想像していませんでした。
父ちゃん、母ちゃん、二人ともまだ夢のようだと言っています。
お店の近所のおばちゃん、おんちゃん、じいちゃん、ばあちゃんたち、
いなくなった人たちが多いです。

まずは、お店を気にかけてくれていた人たちへ
ご報告でした。

西城幸江