もう一人のコンデ・コマ 其の弐 | パラエストラ吉祥寺&パラエストラ渋谷    

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コンデ・コマ=前田光世と同じように「宣揚柔道」の志を掲げ異国イギリスの地で戦い、活動したリトル・タニこと谷幸雄。

イギリスに渡ったのは1900年のことであった。

彼を招いたのはバートン・ライトなる人物。

ライトのプロモーションによれば、日本の柔術(講道館柔道)は57キロの人間(谷)が二倍の体重の相手を打ち負かす、というもので、初めは嘲笑の的であった。

が、その術に興味を持った一人のレスラーがいた。

その名はアポロ。

ストロングマンの異名をとったその巨漢は、152センチ57キロの谷の前に2分足らずで絞められてしまった。

閑話休題。

ここで谷が絞め技に長けていたことに注目したい。

彼が当初学んでいた不遷流は初期の柔術vs講道館柔道の対戦において、寝技での一日の長を持って大いに講道館を苦しめていたことで知られている。

その張本人こそ谷の師匠といわれる田辺又右衛門なのである。

講道館においてまだまだは研究途上であった寝技を習得していたことは、異国の地で戦う谷にとって大いなる武器であったろう。

ここには、後のグレイシー思想を想起させるものがある。

谷に敗れたことをきっかけに、アポロは谷のマネージャーとなり、その技術の普及に一役買うこととなる。

まずはそれを何人かのレスラーを谷と対戦させるべく動き、まずそれを受けたのはコリンズというレスラーであった。

結果は1分、谷の投げにコリンズは頭を打って失神したのであった。

この戦いを皮切りに、谷&アポロのコンビは全英を回る巡業に回る。

谷を負かせばもちろんのこと、15分もっただけでも相手には賞金が与えられるとの試合を重ねたが、そのことごとくを15分以内に破ってきたのであった。週に20人を相手にするペースであったという。

そんな谷でも破れることがあった。

その相手は同じ日本人、タロー・ミヤケ(三宅太郎)。

同じ不遷流の出身であり、172センチ78キロと谷をはるかに上回る体躯。

さすがの谷も6分10秒で敗戦を喫してしまった。

三宅は所定の賞金を獲得した。

ちなみにこの三宅太郎、明治36年大阪にて開催された「全国武術選手権」で優勝しているという。

このような大会については、今後何らかの資料の発掘に期待するものである。

なぜこのような対戦が組まれたのかは謎であるが、この二人、後には共著を出すなど英国での普及活動に協力体制をとっていたようだ。

そして数年を経た1918年、谷は小泉軍治という人物とともにロンドン「武道会」を設立する。

ここには1920年と1928年に嘉納治五郎師範が渡英、訪れた記録がある。

筆者は、ここに谷幸雄の不遷流から始まりレスラーとの戦いを経験したうえで確立しえたであろう、独自の技術が講道館柔道の枠を離れて「ブリティッシュ柔術」とはならなかった理由があると、想像するのである。

武道会そして谷のイギリスでの普及活動が直に嘉納師範のチェック下におかれた状態こそが…他には同時期ドイツでも独自の「独逸柔術」が普及しつつある中、嘉納師範が訪れて10日間の講習会を実施、講道館柔道の姿に矯正したとの逸話もある。

地球の裏側・ブラジル。

歴史に「if」は禁物であろうが、前田光世が存命中もしこの地に嘉納師範が降り立つことがあったなら、現在の「ブラジリアン柔術」は存在しえなかったのではないかと、筆者には思えるのだ。

 

道衣姿でリングに立っている谷。デモンストレーション的な登場の場面のように見えるが、前田光世にはこのような写真は現存しないと思われる。

ブラジルにおけるカーロス・グレイシーやエリオ・グレイシーの初期他流試合の風景を彷彿とさせる。

 

※2008年11月6日発表。

其の壱でも述べましたが、谷幸雄は田辺又右衛門の弟子ではなく講道館に近い人物である、と現在では判明しているようです。

そう思うと、より嘉納治五郎の影響が強かったであろうことが、改めてわかります。