つまらない話(しかも長文)
今日は、つまらない話を、とりとめもなく書いてみようかと思います。
とは言え、いつもつまらないことしか書きませんが、
いつもより、もっとつまらない話です。
※いつも、つまらないblogを見て下さる方への感謝の気持ちを込めつつ。
今日5月3日は、父の命日です。
日韓ワールドカップのあった年ですから、9年前のことです。
早朝、5時少し過ぎた頃だったでしょうか。
病室で、父の付き添いをしていた弟から、
実家で仮眠をとっていた母と私に電話がありました。
弟 「お父さんが… お父さんが… お父さんが…」
私 「お父さんが、どうしたの?」
弟 「お父さんが、お父さんさんが、息しとらん。」
弟が「お父さんが…」と、繰り返す間、私の頭の中は、
父がどんな凄いことをしたのかと、パンパンに膨らんでいたので、
“息をしていない = 何もしていない”ことに拍子抜けしてしまい、思わず笑ってしまいました。
つられて弟も笑っていました。
父がいよいよ最後だという知らせに、笑ってしまった自分は、どうかと思いますが、
なにせ初めてのことだったので、許して下さい。
母とペーパードライバーの私が運転する、おぼつかない車で10分程の病院へ、
急いでむかいました。
病室では担当の先生が、心臓マッサージを一生懸命されていました。
母と私が到着してしばらくしてから、その手を止められ、父の死を告げられました。
わかりますか?
弟から電話があった時点で、父は息をしていなかったのですから、
母と私が病室に到着した時には、心臓も、遠に止まっていたのだと思います。
「延命措置は、希望されてなかったのですが、心臓マッサージだけさせてもらいました。」と言う先生に、
まず、弟と私は「ありがとうございました」と頭を下げました。
先生の粋な計らいで、父の死を看取ったことになったのです。
ここまで書いて、ふと思いました。
この調子で書き続けていたら、途方もなくなってしまうなと。
映画「ネバーエンディングストーリー」で、
リマールの歌をバックに、ファルコンが飛ぶ姿が見えてきました。
私が父に付き添ったのは、週末だけの1ヶ月という短い期間でしたが、
その間経験したことは、今思うと私の人生観を大きく変えました。
父は、私の良いように旅立ってくれました。
そもそも5/3という日がそうです。
故郷の鳥取を離れて、東京で仕事をしていた私には、
ゴールデンウィークという、大義名分の元で堂々と休みをもらい、
前半で、たっぷり父に付き添い、後半で、父をおくることができたのです。
※お葬式に参列して頂いた方には、誠に申し訳ない。
母と弟と私とで、不眠不休に近い状態で付き添いをしている間、
叔母たちは、毎日弁当を届けてくれました。
それが美味しくて、看病疲れで痩せるどころか、むしろ体重は増えたかもしれません。
※この時、手作りの弁当のありがたさや、もう口から食事の出来ない父を見て、
何があっても食べなければならない、食べられることの大切さを知りました。
木村のおじいさんという、痴呆の入った患者さんが、
度々、病院の廊下をうろついては「帰る病室が、わからんくなりました…」と言って、
看護師さんに手をひかれている姿に、和んだこと。
その木村のおじいさんが、父の亡くなる前日に、
きれいに咲いた大きなバラを持って、いきなり父の病室に現れて、
「この花な、ワシは蹴飛ばしてしまうけん、あんたにあげる」と言って、母に渡したこと。
※ボケたおじいさんを、バカには出来きませんね。
当時フランス語のレッスンを受けていた、同じ教室の友人が、
レッスンに通えなくなってしまった私に、毎週レッスンの様子や、
宿題をメールで伝えてくれました。
友人は、私の状況を知っていたので、そんな私にレッスン内容のメールを送るのは、
とても気を使うことだったと思うのですが。
※父のことで頭がいっぱいだったので、そのメールがとても良い気分転換になりましたし、
看病の合間に、少しづつでも勉強を続けることができました。
ただ、一番申し訳なく思ったのが、父と一緒に働いていた女性です。
看護師になりたいと、仕事を辞めて学校に通い、
看護師になった最初の担当の患者が、
余命わずかな父である、知り合いなのですから。
※ごめんなさいね、こちらは大変心強かったです。
ファルコンの辺りで締めるつもりが、さらに長くなってしまいました。
まだまだ話は尽きないのですが、お腹がすいてきました。
最後に父は、私に良い思い出を残してくれたということを、
ゴールデンウィークのどさくさにまぎれて、書いてみたかったのです。