こんばんは!
去年の夏に増して職場に行っていない一依です。
半分仕事に関わってる内容なのに出張にならないから休暇使って地方へ飛んでいるよ☆
うん・・・・・・・・
私の休暇・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・まあその話は置いておいて!
長崎に行って来ました。
参加団体に援助してもらいましたが、変わりにレポートが出ているので
その下書きがてら記事にしようと思います。
因みに先ほど2日目まで記事を書いたのに、
マウスが滑ってブラウザバックして消えたよ。
もう本当にいや。
目的:「原水爆禁止2011年世界大会」参加
原子のこととかは芯まで理解しないうちに職に就きました。
「勉強しなきゃ、でも眠い。グーzzz」という日々を続け4年目。
昨年はエネルギーに関する研究に当たっちゃったりして、
でも勉強できずに時間稼ぎしながらやり過ごせて。
そうこうしていたら原発さんが事故を起こしてくれちゃって。
去年、広島に行ってから戦争のこととかも興味が出てきていたので
職場の先輩の進めもあって行って来ました。
「原水爆禁止」といってもまだ強い主張は持っていません。
自分の意見は色々知ってから決めたい。
「中途半端にものをいい始めて、強がりだけでそれを突き通す」のはみっともないですよね。
TV報道も意見が出尽くした感があるし、
原発問題に至っては「どこまで信用していいのか」という問題も発露。
やっぱり自分が事実を知る。
そしていろんな人の意見を聞く。
今回は「核」それに加えて「原発」人の意見を聞きに。
大会に出た直後なので、影響されているところもあると思います。
でも、とりあえず、今の時点での考えです。
大会1日目:開会総会長崎市長、被爆者、国連、各国代表のお話。
印象に残ったのはドイツ代表の発言
「原発をなくせば雇用が失われるというのはウソです。
自然エネルギーへの転換が、更に大きな雇用が生み出されています」
そして、多くの代表者が言っていました。
「平和への思いは多くの人が持っているはず。
でも、思うだけでなく、どんなに小さくてもいいので行動をしなくてはいけない。」
続けて行われた青年総会では東大大学院小森教授の
「爆弾には「核」、発電には「原子力」という使い分けにだまされていないか」
「原発開発予算成立は1954年4月その前の月、3月に第5福竜丸事件が起きているが。予算が成立した際に福竜丸は帰国していない。」
中曽根元首相のこのときの回顧録は検索すれば引用がネットでも読めます。
当時の開発費予算2億3千5百万円はウランの原子番号235に因んでいるんですって。
オマケ
夕飯は新地中華街
シャッター速度が遅いせいでブレブレです。
ニャンコ
一番ぶれてない写真がよりによってこの顔・・・・いや、先輩が抱いたんですが、懐いてましたよ、ちゃんと!
ちったくてかわいかった~。
宿舎は「ヴィクトリアイン」
ユニットですが、お風呂広かったです!
アメニティもおしゃれでシャンプーいいにおいでした。
ホテル内のレストランは「地産地消」テーマの素敵なお店でした。
次に長崎観光する時も泊まりたい!
2日目:佐世保基地調査行動
長崎駅をバスで出発。
地元の民商会の方のガイドで佐世保へ。
基地周辺を見ながら弓張岳の展望台へ。
佐世保基地側
佐世保港の8割を自衛隊と米軍が使用しています。
手前中央の岸壁の1部は民間企業が使用していますが、7日前に通達が来ると米軍が無償で使用することが約束されているそうです。
この写真では見えませんが、
太平洋戦争開戦の指令を出したといわれる針尾送信所の3本のアンテナも見えました。
九十九島側
いいながめ!
この後、佐世保港をフェリーで一周。
船着場も綺麗。
途中、とても綺麗な岸壁もありましたが、兎に角軍事施設。
イージス艦とか、ミサイル対尾艦がもうすぐ近く。
沢山撮りましたが載せていいのか分からないので。
雷も鳴って雨もザンザンですが波は少し高いくらい。
不思議なのが、鳥がいない!
長崎でフェリーに乗るとカモメがずーっと着いてくるのに。
先輩が教えてくれたのですが、漁業をしていないからとのこと。
白い農業用テントのような建物がありました。
そのうちの一つは最近作られたとのこと。
住民が「放射線物質を持ち込んでいないか」と市議会に問い合わせたところYes。
福島で援助しに行った時の防護服やらがあるとか・・・
あ、丁度今、ニュース(NHK)でそのこと伝えられました!
普天間にも持っていってたのか;;;;
報道されたから解禁!
地元の方は「被爆地長崎によく持ち込めたもんですよね」とコメントしていました・・・
<弾薬集積所>
住宅地に程近い(一番近い民家まで70m)の集積所を住民は「撤去・土地返還」を要求。
市議会も全会一致で案を採択。
ところが国は「移転・返還」。
弾薬は同じ佐世保港内の弾薬庫に集積しますが、
「集積先の弾薬庫が古くて改修して欲しい」という米軍からの要望が兼ねてよりありました。
「コレを機に改修しましょう。思いやり予算で!」
因みに、弾薬庫の周りは避雷針が沢山!
「そんなに立てるんかい」って位にありました。
<原子力空母の寄航>
以前までは寄航する前に住民に知らされていたそうです。
が、東日本大震災以降、なぁなぁになってきている、気付くと来ているそうです。
その後、米軍住宅近くを通って、
引揚者の遺骨等が納められているところへ・・・行けませんでした。
米軍住宅の横の道を通過するのですが、閉鎖されていました。
Uターン。
その間、バスから米軍住宅の写真を撮る人。
警備の人が「ダメ」ってジェスチャーしてるのにやめない。
うーん・・・・・・マナーとしてもどうよ、この辺!
閉鎖はしようがないので浦頭引揚記念平和公園へ。
その後、西海橋を通過して長崎に戻りました。
この日はやはり、「軍施設撤去派」の方のガイドだったので、今度は個人で米軍サイドのガイドも受けて見たいです。
オマケ
浦頭引揚記念平和公園にいたにゃんこー!カメラ向けても全然平気でした。
夜は出島でご飯
夜景
先輩いわく少し節電していたそう。でも綺麗でした!
3日目
先輩にごめんなさいをして閉会式には出ずに原爆資料館へ。
小さい頃に来た時と大分展示も変わった様子。
広島の原爆資料館(2010時)と比べると、長崎の方が被爆者の写真が多いです。
広島の方はほとんどなかったですが、長崎では出してました。
そして、戦争や原爆開発の歴史、米国研究者(原爆投下反対派)の声明や
原爆、原爆開発施設で被爆した方のVTRが充実していました。
国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館で平和記念式典の中継をしていたので、
そちらで式典を見ました。
11時2分、駅にいた先輩は、サイレンが鳴ったら駅の人もみんな自然に黙祷をしていたと言っていました。
式典が終わったらどっとツアー、報道陣が原爆資料館へ。
荷物を持ってすたこら退散。
一度長崎駅に帰ってご飯して、お土産かって、
集合場所(平和祈念公園)に戻りました。
ここでも報道陣が。
トランク転がし、文明堂の袋持った不審バックパッカーになった自分が映りませんように!
と思い公園のはしっこにいました。
その後、先輩と合流して帰郷しました。
まとめ
今回、一番考えたのは佐世保基地を見たことでしょうか。
また、米軍主催ツアーに行くと、基地の中も見られるようですので、
また頭を切り替えて見に行きたいですが、今回、武器があるのを目の当たりにすると。
今、自分達が(モヤモヤイライラはしつつも)のんびりしている「平和」は
「十年先、二十年先に必ずある!」と言い切れない気がしてきます。
丁度NHKが当時の政府・軍の流れの特番をやっていますが、
当時の政府の認識の甘さとバラバラさ・・・
今回の原発の「想定外」も同じ類の甘さかもしれません。
国民はどうか。
「本土戦にはならない」と戦争を始めた当初はそう思っていたという話はよく聞きます。
現在も戦いに参加しているアメリカ。
そこに協力するということは覚悟しなくてはいけない。
「どの程度参加するかにも程度がある」なんて言葉は、事が始まってからでは遅いこともある。
平和が壊される可能性は徹底的に0にしたい。
科学者は「ありえない」とか「想定外」というけど、本当にそうなのか。
橋などを作る際、安全設計については「何年耐えられるか」を考えます。
「30年に1度の確率で来る規模の地震に耐えられるように造るのか」
「10000年に1度の確率で来る規模の地震に耐えられるように造るのか」
防波堤の高さだってそこが甘い。
建造費とのバランスで、このくらいの年数でいいだろうと妥協していなかったか。
どんなにお金がかかっても、大津波が来ても大丈夫なように、
誰も死なないようにしておけなかったのか。
自然に対しても、戦争に対しても、平和なのが大事なんだろう。
ずっと、先まで約束された平和をつくらないといけないと思う。
核と原発についてはどうか。
同じように、よく言う「恒久平和」を望むなら原爆は勿論いらない。
「原発」も、「安全」といいながら現在の技術では到底制御できないことが、
もういくつもの事故で明らかなのではないか。
実験施設周辺でも漏れ出した放射線に被爆している人が世界中にいる。
「実験」だとしても、軽々しく扱うべきものではない。
・・・これが、今回の長崎行きで自分が思ったことです。
まだまだ、未熟な考えで、今後変わることもあると思います。
でも、自分も今後の世代も安心して過ごせる環境を残したいという気持ちはかわらないだろうな。
これ、A4超えますよね!
レポート終わりじゃ( ´艸`)
全部読んだ人がいたらすごい!
長文・乱文失礼しました。








