あの丘の向こう149 | ノガレスのバス停のブログ

「ネガティヴ・ケイパビリティ」


と言う概念に出逢った。

 詩人ジョン・キーツの弟達に書いた書簡


“解決出来ないものは、

宙ぶらりんの状態でいいんだ。

 待ちに待って耐えて行く力”


 早急に、急いで結果を求めない姿勢






私達は皆、

常に、立ち居振舞っている

動き回らずには、いられないのだ。


 仕事に忙しく没頭する

 せわしなく、心を彷徨わせる

 始終思考する

 心は常に過去と未来に行き交う


 “中心”を見つめたくないから

 “源”に絡め取られたくないから。


 本能的に感じている、

“自己の中には何も無い”

  事を認めたくないから。

 何も中心には存在しない事を知りたくはないから、常に動き続ける。

 常に考え続ける


 Confrontation 

“直面化”するのが怖いのだ。

 源泉(Source)に


 空港の税関を通る時のように。

“Nothing to declare “

 申告するものは、何も無い

 中心には、何も無い

 広大な‘無’ が拡がっている。




“OLD SURVIVOR”(若しくは“Gland Father “

オークランドの原生RED WOOD 

 “無用の樹”と称されてきた

樹齢500年になる奇跡の生き残りだ。


 「有用であれば価値があるとする差別に対して、

木は言う”そこにどんな意味がある?

お前は死ぬ運命にある、

役立たずの人間ではないか!

 それなのにどうして

私に価値がないと判断出来るのだ?“」

 


今の世の、

ATTENTION  ECONOMY 「注意経済」

 ネットワークに翻弄されている人類

注目されるものに値打ちがあるとする

間違った経済を還すものの象徴

 警告だ

 

人間に役にたつものだけが価値があるとする、

利己的な考えが

今見直されてきている。

 

 このコンセプトを知ったのは、

ネット購入ばかりしていたので、

久しぶりで行った本屋さんで見つけた

Jenny Odellの本からだ。



この本の中で彼女はセネカの言葉を引用する

 「無益な悲しみ、愚かな喜び、尽きせぬ欲望、

 社交の誘惑にどれだけのものが奪われ、

 その挙げ句あなたには

 人生の時間がほとんど残されていないということを。

  すでに

 自分の人生が尽きかけているということが、

おわかりですか」



コレは、

 超絶主義Transcenalism の

ラルフ・Waldo Emersonの友人であり弟子の

ヘンリー・David ソローの自伝

”Walden”


 「私が森に入ったのは、

  人生を熟考し、

本当に大切なものと相対したかったからだ。

  そして死ぬ時になって

  私は生きていなかっただと言いたくはなかっ  たからだ」

 を想い出す。



 何もしないこと ’Nothing’

 老子の言うTAOに帰する、

 ”無為”の必要性は

 このATTENTION エコノミーの

 忙しない時代には、この上なく光り輝く





 “人生は遊戯(リーラ)です。

  神のように謳いなさい

  踊りなさい、

  それで十分です”

   (ラーマ・クリシュナ)

 


 そしてもう一冊


音が無いと言う、静寂ではない、

実存の静寂があることを教えてくれた本


 “この静寂は、耳には静かで、

  心の中でも静かでありながら、

 意識の中では

  雷が轟くような経験になりうるのだ”



 advaitaの臨在 プンジャジの弟子

 マリー アントネッリ

 覚醒後の名前 ’Gangaji’

    は、著書の中でしきりに

 “stillness “「静寂」を頻繁に用いている。

 


 さらにもう一冊の関連本


“現実とは、その出来事が起きた事実を指し、

 その出来事に与える意味や考え、

受け止め方を含みません”

        ( Joseph  Nguyen )



起こっている現実に対しての心、

mindの反応が問題なのだ。



“私達の感情は

外的な出来事から生まれるのではなく、

 その出来事に対する私たち自身の

 考えから生じます“





“ネガティヴな感情は、

思考の内容でなく、

 思考の量に比例し、


ポジティブな感情は、

 思考の量に反比例する” と。