あの丘の向こう90 | ノガレスのバス停のブログ

”リラックスして旅を楽しめ!“

        (リチャード・アルパート)


 陰ヨガNight 卍



 日々の、毎日の積もり来たった苦渋が

崩れていくのが見える。

 アーサナで。

 アドヴァイタのawareness の中で。


 「少ーし、負荷を掛けて様子を見る!

  呼気を強くして、身体に聞いてみる!」

 マスターYukie の声が、

 澄み切った夜のお寺を通り抜け

 裏山に跳ね返って戻って来る。


 そして本堂には、

空間を覆い尽くして、


圧倒的な何かが、来ったのがわかった。

 ドアを開けた向こう側。



 

 「死とは、

   死とはドアの向こう側に行くようなもんだよ」

 恩師が、そのまた彼の恩師の

 言った言葉を、私に告げた。


 ドア🚪を開けた向こう側に。

 旅の終点が!



 「おみゃーは、もっと賢いと思ったよ」

南Indiaから帰り、実家に戻って来た後の仕事場

 建築職人のアルバイト先の親方が言った。

 (自分でもそう思ってたよ!)


 でも何処かで、高校時代から鬱屈した

緑の季節に順応して来た過去があるのを恥じていた。


 知識は智慧にはならない事


 “自分は何も知らない” が、

 全ての答えを越えた謙虚な正解だったのだ。


 masterユキエは締めにあたる

 サヴァ・アーサナの時、

 「さあ、この静けさの中に浸りましょう!

  私の名前、肩書き、過去の歴史、

  今まで学んで来た知識の全ての、

  全てを解き放ちましょう!」Let Go!


 “履歴を消す”

 カスタネダの師、ナワール・マトゥス

 が最初の頃に、彼に言った課題だ。

 

 自分はこれこれ、こういう者だと言うのは

 単なる思考(mind  ego)の技だ。


 観念でしかないのに、

 私達はその網に絡め取られてしまって、

 抜け出せない。


 屍のポーズの間にこの事が

一瞬に脳内を駆け巡り、

身体の中心を貫いた。

 まだ落とし切れていないが、

 手応えが。

 内側から、殻を突く嘴があった。


 スタニスラフ・グロフが編み出した

西洋東洋の教えのエッセンスを投入した

ホロトロピックbreathingの

ワークショップ時の様に

 身体をジーンジーンさせたのだ。



 Let Go 

 解放

 それは“Death “だ。


 死は解放の第一義

 Jesusの前に死んで生き返った

 ラザラスの様に。


 死から目覚めさせられて、彼は戸惑った

 何故このまま、

 悠久性、絶対性の中に居させてくれなかったのかと。




 “大宇宙を、このボールの中に

 押し込めると言うのはどうかね?

  そして、それを大問題に

 向かって転がしながら、

  質問をする。

 「私はラザラス、死からやって来た。

   汝ら全てを救うために」“

  (T . S . Eliot “荒地”)









森のcafe

隣りのソファー席に親子が座った

「お腹空いたー」

壁際のベンチソファーに少年 小学校4年頃

向かいの通路側の片い椅子に母親が。

 そしてメニューを見始めた


私は、赤ワイン🍷とロコモコプレートを食べ、

ジャック・リーチャーの最新刊に戻った


「行こう!」

隣り席の母親の声で、私は注意を隣に移した

 母親は同時にスタッフも呼んだようだ。

“はい?”とスタッフ

「すいません、出てもいいですか?」

 「ヤダよー」と少年

 「だって食べるものないんでしょ!」母親は声を荒げていた。

  「食べるのあるよ〜!」


 が、母親はもう席から立ち上がっていた。

 そして出入り口へ


 追いかける少年の後ろ姿

 辛く、哀しげで寂しげだ

 

 

 いつの世でも

 どの世界でも🌎

 子供は親に従うしかないのだ。


 私も似たことをして来たのだろうか?

 日頃のストレスを、

 家族にぶつけていたのだろうか?


 

 少年時代

 学校は街中にあり、

 家は郊外にあった為、毎日バス通学だった


 その為放課後遊ぶ事はなく、

 1人バスセンターに歩いて行く夕方


 帰ると居るのは、母

 食事の手伝いを

 洗い物をする日常


 新興住宅地にて、人は少なく

 同じ年代の子供も居ず

 外ではもっぱら、川辺でのザリガニ取り


 常に一人だった。

 夕暮れ時、

 近くの山の端に沈む夕陽を、

 その後に現れる星々を見て過ごしていた。

 



 ”廊下を歩くとき、

 一歩一歩がもっとも深い

  覚醒の完全な表現です。

 

 家族を養い、子供たちと付き合い、

 仕事に行き、休暇に行くといったすべてが、

  表現できないものの本当の表現です。


 ....悟りとは普通さの中へ、

 驚くべき普通さの中へ死ぬことです。

  私たちは普通さが驚くべきことだと

 理解し始めます。


  それはほとんど、

 隠された秘密

  ー初めから私たちは約束の地にいた、

初めから私たちは天の王国にいたー

 を見つけるようなものです“

  (“The End Of Your World”

                          by Adyashanti)

  





 恩師が地上から去って、21ヶ月

 まだ私は、

 面影を追っていました。

 事あるごと。


 35年に渡る今の仏道修行

 それ以上に関わってきた、

 アドヴァイタ・ヴェーダーンタ、

 ニューエイジの世界


 恩師にこの非二元の概念を

精舎の地下のカフェテラスで話した事があった。


 “Indiaまで行って求めてきた、

  自他の区別が無くなると言う境涯は、

 この大乗仏教の教えと

どう捉えればいいんですか?”


  暫く恩師は、テラスに植った

  芝の目を読んでるかのように、凝視していた


  「いいかいSnoちゃん、

   その無の体験がどんなだか、

   俺には分からないけど、


   この教えは、命懸けで開かれた

   唯一無二の教えなんだよ。

   比べようもない。

   比べる事はできないんだよ」

   

   「たった一つ、

   この教えを開いたFounder の道程を

   受け入れ、信じて行くかどうか

    だけなんだよ!」

  

   自分だけの悟りを求めるのでは、

   声聞 縁覚の二乗の教えだと言っている

   のでしょう。

    同じ準拠枠に収まらない、

   納めてはいけない教えがある。


   

  しかし私は今だに、脱けだせないでいる。

  ノン・デュアリティの観念から。


  


 “覚醒は起こるけど、

それは誰かに起こるんじゃない。

 それはただ単に起こることなんだ”


 “これがたぶん覚醒についての最大の問題だと思うな。

 人はそもそも

たどり着くことが出来ない場所に

行こうとしてるんだ。

 覚醒とはただ単に、

 どこにも誰もいないってことを

 認識するってこと。


 ここには誰も存在してない。

 ひとつのものが

 それ自体をいろんな形に

  分けているだけなんだ。

 いろんな形をとって現れてる。

  それだけ”

  




 「パートナーの母が

  つまづいて転倒したんです。

  でも、その事がキッカケで、

  今まで分かっていなかった病気が

  発見されたんです」


 「子供と和合出来ない事は、

  私の中にある、

  人を寄せ付けない心情が鏡と

  なって反映しているからでしょうか?」


  今もこれからも

  聞きたい事が沢山ある



 「昨日懐かしい街の中華屋さんで、

 半ちゃんラーメン食べました。

  これが今時の、脂ぎったラーメンと

 違う、ノスタルジックなラーメンなんです」


 これを聴いたら

 恩師が喜びそうだ。




 “僕らは劇の中の

  ただの登場人物なんだ。

 劇を監督している存在じゃないってこと”




  “それ”を認識する迄

 どれ程の時が必要なのだろう。

 幾つの人生を経なければならないのだろう?


 やはり、恩師に訊かなくては!




 “ああ、ありがたい。

  そうだ、ありがたいよ、

  全部終わったんだ”


    (「わかっちゃった人たち」

         サリー・ボンジャース)


 あの様な存在は、

 もう決して現れない。

 今生においては。


  




 2度と