あの丘の向こう85 | ノガレスのバス停のブログ

 

 「いまこの瞬間

  自分に聞いてみる。


  “私達は、何故生まれてきたか?

   私達は何の為に生きているのか?”

   ー身体に尋ねてみる!”

 





 陰ヨガ at zen 卍 第10夜




  片鼻ずつ呼吸を繰り返すプラーナヤーマ

  「ナーディーショーダナ」

  鼻奥がスッキリして、

  心も揺蕩っている時のこと。


   Yogini Yukieの言葉は、

  今までの陰ヨガではなかった、

  形而上学的存在意義を問うていました。




 一つ前のクラスから発せられたこの言葉

 人間のレーゾン・デートル(存在理由)

 にもつながる

 アイデンティティ肯定の

 These(定立)でした。




 即座に思い出されるのが、

 有名な絵画

  「我々は何処から来て、何処へ行くのか」


  Vincent ファン・ゴッホの友人、

  ポール・ゴーギャン

  19世紀後半期 

  移り住んだタヒチの地で描いた大作


 ゴーギャンの思想背景には、

 Teenage  学生期に学んだ、

 Catechism (キリスト教的教理問答)が

 ありました。



 17世紀 イングランド

 プロテスタント


「ウェストミンスター大教理問答」


 “人間の生きる目的は何か?”

 に発する、raisin d’etre


 これが巨大なカンヴァスに

 塗りこめられ、投げかけられました。

 

 

 Master Yukie の言う、

 ‘身体に問う’とは何なのか?


 身体と言う事の意味は

 思考 マインドに依らないと言うことか?



 ゴーギャンの大作の中に答えを見出しました。

 絵中央には、右側から

人生の初・中・終息が描かれている。


 そして、左上には菩薩の様な碧い人物が。


 “The Beyond ”( 超越者)と名付けられている像

 人生を、人間の懊悩を、

 超越する存在

 Being

 Existence 

   Consciousness 

 Presence 

   



 自分は身体だと言う思い込みから

アイデンティティ Mindを、

 叡智の炎で焼き尽くすこと




 


 “この「私」という概念は、

 「想像するのは難しい」と言うことで、

それ自身の生き残りを図ります。


 ...理解したい、質問をしたい、

という欲求が生じます。

 そして質問をするとき、

それは質問者になり、

答えを求める人になっているのです。


 そしてその人は答えを理解しよう、

概念化しようとするでしょう。


 しかしその人が消えたとき、

 つまり幻想である、

その人が消えたときには、

 質問はもうありません”

  

 (‘No you and No me’

      「あなたも私もいない」Rick Linchitz)









 実家での

 夕暮れ、

 黄昏時

 自分の部屋の開け放たれた窓から

 遠く‘満観峰’の山並みを

 じっと見ていた少年時代


 一つの情景を、

 長い時間 見続けていたのを思い出す


 思考は取り留めもなく流れていた。

 山際には、うっすらと星の瞬きが。

 山の端には漆黒が覆って来ていた



 「自分はこの私と言う存在は、

   この先果たして、

  何かを見つけるのだろうか。

   何かを成し遂げる事が

   出来るのだろうか?」


 そんな事を日々、

 2階の窓から虚空に問いかけていた。


 それはその後

舞台を移した

都内にいる時も同じだった。

 10年毎に訪れる問い掛け。


 “私は一体全体、何をしたいのだろうか”







 今も同じなのだ。

 未だに。

 歳を経ても変わらない


 既に諦観が、

 絶望が、

 身体に蓄積している


 深淵に吸い込まれる、

 虚無の接近が近くなって来ているのに

 未だに何も見出していない。

 この先もそうなのだろう




 過去も未来も幻想で

 マインドの創造の産物

 神々の遊戯(リーラ)


 私はその中の役者

 見かけの影に過ぎない

 

  この事を見抜けば、

 苦難からの解放があるのだろう。

 しかしまだまだ、のようだ。



 虚無に追い付かれる迄

 後何年あるのだろうか。





 ”邪心を断ち、すべてを許し、

 路地裏の小さな粗末な部屋に

 ひとり暮らしをし、ドラッグを断ちー


  “私はいくつかのことを学んだ。

 現代生活は、終わりのない戦争なのだー

  捕虜も認めず、

  負傷者を殺し、屍肉を貪る戦争ー

  それが当たり前になっている。


  ...その日は、毎日確実に近づいている。

  その日になれば...


   じっと待ち、

   いくつかの冬に耐え、

   その日が来たら、

   

   最後の踊りを始めよう”


   (James Crumley

                          “Dancing Bear”)






  日々は耐え難いルーティンの連続で

 常楽からは遠く離れている。


 初春が近い、

 今頃の夕暮れは、

 昔日の陽の名残りを惜しむかの様に、

 

 オレンジ色から漆黒の夜に

 数秒毎に刻々に変わりゆく


 それが私の心を、

ノスタルジーに迷い込ませ、

 苦悩だらけの日常から

 抜け出す事さえも

 忘れさせるのだ。

 

 

 

 





  ”ある人々の魂の中には

  キャッツキル山の鷲がいて、

   谷底に真っ逆さまに落ちても、

  再び舞い上がって、

  天空高く舞い上がる事が出来る。


   もし舞い上がれなくても、

  谷は山中にあり、

  平地の鳥が飛ぶ処より

   まだ高い“


  (「Mobby Dick 」 ハーマン・メルヴィル)