木下龍也『きみを嫌いな奴はクズだよ』感想 | Papytat~東京農工大学生協読書部~

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木下龍也『きみを嫌いな奴はクズだよ』書肆侃侃房

 短歌で終わらせるのは惜しいのに、短歌だからこそ引き立つ言葉たち。

 また歌集の感想かよ!といった感じだ。しかし、ここのところ自分が読んでいるのが、こういう歌集か、社会・思想系の本しかない。後者はそもそも感想というか批評というかを書きにくいので、ブログの記事にするのにはちゃちゃっと書けちゃう歌集の感想が一番自分には合っている気がする。

 「ちゃちゃっと書けちゃう」のは、本当にいいことだと思う。頭のなかで思っている言葉と、タイプして変換して現われる文字列との間に、時差とか齟齬が生じにくい。書いてて「ノッてくる」わけだ。そうすると、不思議と自分の文章が上手いとか、わりとよくできたなとか、そういう陶酔に浸れるので、とても精神衛生上いいわけだ(笑)。

 難しい本の書評を「うー」とか「あー」とか唸りながら書くのも、もちろんやりがいのあることには違いない。評するということは、自分が少なからずその難しい内容を理解していなければならないし、場合によっては本をわりと読み直さねばならないときもあるだろう。それはとても勉強になるものだ。ただ、そういうことを「苦」に感じるような――書いてて「ノれない」ようなことが続くと、どうしても筆不精になってしまう。ひどいときには、書きかけのまま放置してしまうこともあるわけで。そうやってHDDの片隅に押し込められた拙文がいくつあるのか、数えるのも恐ろしい……。

 さて、閑話休題。感想文である。先日の書き方がわりと気に入ったので、それを踏襲していく。

 P9 オレンジの一本足を曲げられてカーブミラーは空を映した

 個人的には、実はこの歌集の気に入ってる歌の中で、一番多義的で解釈に困っている歌である。いや、写生的に考えたら「はあそうですね」で終わってしまうんだろうけれども、それじゃあまりにも勿体無い気がする。余談だが(あの長編歴史小説のパクリだ)、この歌集の歌はどれもこれも「ほら、解釈してごらん」と語りかけてくるようなコンテクストを感じざるを得ないものばかりだ。
 ひとつめ。「惨事から目をそらす」ということ。
 カーブミラーの一本足が曲がる、ということは、事故があった、とまず考えられる。けっこうな速度でぶつかったのだろう。よくニュースで見るような、ひしゃげた車体、飛び散ったガラスの光景が脳裏に浮かぶ。ひょっとしたらアスファルトには血が飛び散っているかもしれない。カーブミラー、つまり交差点は、しょっちゅう事故が起きる場所だろう(少なくとも、見通しの良い直線道路よりは起きるだろう)。このカーブミラーは、何度もそういった事故を目の当たりにしてきたに違いない。「ああ、またか」というような気持ちで、被害者となった自分ではあるが、何よりも運転手(や同乗者)の様相を考えると、顔を覆ったり、目を背けたりせずにはいられないのではないだろうか。
 ふたつめ。「被害者の暗喩」ということ。
 この事故では、カーブミラーはぶつけられた被害者の側だ。よく、テレビとかである(○○警察24時!みたいな番組だ)交通事故の現場にいる被害者は、仰向けで横たわっていることが多い、と感じている。ぶつかられたカーブミラーが、(もし人であったなら)被害者として現場に倒れこんでいる。そんな雰囲気も感じられる。
 で、他には「足元を砕かれることで見えてくるものもある(一度挫折などを経験しないと空の青さはわからない、的な)」とか「役目を終える際に見える美しいもの(きっとこのあと、工事で新しいカーブミラーに替えられてしまうのだろう。でもその前に、車でも路上でもない、何か他の景色を見ることができた)」とか思っていたのだが、そもそも「カーブミラーが見ている」という前提がどうなのか?あくまで「映している」のだから、他の意味も見いだせるのではないか?とそこまで疑いたくなってきてしまい、キリが無くなったので終わりにしておこう。この一首でひたすら文章を続けられそうなので。

 P12 悪人も悪人なりのめでたしで終わる話でありますように

 ハッとさせられる歌だ。以前見た、「めでたし、めでたし?」という作品のコピーととても重なったので、引用しておきたい。
ぼくのおとうさんは、桃太郎というやつに殺されました。
 (引用元;http://www.pressnet.or.jp/adarc/adc/2013.html)
 あえて、正義の暴走という点を考えてみたい。これはなにも絵本の世界、昔の戦争の話だけではなくて、今私たちが生きている世界でも見られることだろう。例えばネットの炎上なんかはその典型例で、SNSはもはや「法律の完全実行」や「道徳の過剰」の空間と化してしまっているような雰囲気すらある(参考;田中辰雄・山口真一『ネット炎上の研究』勁草書房)。
 私たちが「いやあ、よかったねえ」「終わった終わった」と思うとき、それはひょっとしたら「私たちだけ」の「めでたし」で終わっているのではないだろうか。無意識の内に、「こっちがわ」と「あっちがわ」を区別して、それぞれの極端な面を更に増長させるような言表に、私たちは身を委ねてしまっているのではないだろうか。
 「悪人なりのめでたし」という言葉が、とても輝いている。「私たちのめでたし」、「こっちの側のめでたし」を押し付けるのではなく、あくまでも相手にとっての「めでたし」であることが大切なのだろう。
 きっとこの物語は、まだ終わっていないに違いない。読み解かれている、あるいは綴られている最中であるからこそ、「終わる話でありますように」という切な願望が込められている。

 P60 戦争が両目に届く両耳に届く時間を与えられずに
 P64 ぼくは最年少の兵士だったキスは済ませたが恋は知らなかった
 P65 一行に友人の名と死がならぶとき友人は死のむこうがわ
 P67 ぼくなんかが生きながらえてなぜきみが死ぬのだろうか火に落ちる雪

 連作にも感じられる、戦争と死を扱った四首だ。とくに二首目の破調が、痛いくらいに効いている。
 一首目、倒置法が歌を圧倒的な速度で読み手に「読ませる」ものだと感じた。そしてその速度、スピード感が首の内容とも合致していて、思わず二度、三度と目を往復させてしまった。何が起こったのか、なぜそうなったのか。説明もなく、分からないまま、気が付けば軍靴がもう目に見えるほど近づいている。いや、あるいは、それこそ「敵」の影が見えてしまったのかもしれない。そう考えると、「敵」とは何者だろうか?いや、そんなことを考えている余裕はない、ほら、敵がそこにいる――。そういった加速度的展開を感じてしまうのは、野暮だろうか。
 二首目から四首目で、痛々しい情景がまさに迫ってくるようだ。とくに四首目の「火に落ちる雪」という表現がとてもよく効いていると思う。日本の戦争のイメージというのは、沖縄戦から原爆投下、そして終戦に至る夏の景色が一般的に思われる中で、あえて「冬」の戦死者追悼が描かれている。同じく二次大戦で言うなら、スターリングラードや北欧の戦線だろうか。
 「火に落ちる雪」という和風な表現が、そういった異国感の中に醸しだされていて、なんとも言えない情緒を感じる。考え過ぎかもしれないが、「火」は同音の「碑」にかかっている言葉なのかもしれない。

 P129 痩身の祖母にもたれる弟の夏が終わりに傾いてゆく

 長文になり、さて最後の一首は何にしよう、と思い、これを選んだ。
 ともすれば何気ない晩夏の光景。里帰りしていたのだろうか。細田守の映画に出てきそうな入道雲と遠山、ひまわり畑と田畑を借景にした田舎の平屋、その縁側に腰掛けながら、少しずつ赤らむ空を眺める弟と祖母の様子。ノスタルジックで、なんだか懐かしい匂いのしそうな光景が容易に想像できる。
 しかし――。きっと、そう簡単には終わらせてくれないのが木下龍也なのだろう。「痩身」という、何気なく初句に置かれた言葉に注目したい。他に、「祖母」にかかるような言葉はいくつもあったはずだ。「たおやかな」「目を閉じた」「正座した」などなど、それこそ枚挙に暇がない。
 考え過ぎかもしれないが、きっと祖母は――もう先が長くはないのだろう。そう考えると、「もたれる」「終わり」「傾く」という一つ一つのフレーズが、どれも縁語に感じてしまう。まあ、僕がサマーウォーズを想起しすぎなだけかもしれないのだが。


 『つむじ風、ここにあります』では、良くも悪くも「フワっとした感じの、良くある現代短歌」という雰囲気を感じた作者が、ここにきて大化けした!という印象の歌集だった。気づかぬ内に読ませられ、31文字の背後にある物語を、読者の内から引きずり出してくる。新たな言葉の感覚と共に、自分の中に埋没していた感覚がくすぐられるような、そんな「進化」を感じた。