田中ましろ『かたすみさがし』感想 | Papytat~東京農工大学生協読書部~

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 こんにちは、毎日がホリデイな代表です。全然記事を書かないので、筆名を忘れる→新しく作る→書かない→忘れる→新しく作る、と色々と名前を使いすぎてわけわかんなくなってきました。以前自分が書いた記事はかろうじて分かりますが、もうどうしたらいいんですかね。

 最近、歌集にハマっているので、読んだ本の感想を書いてブログをウホウホ盛り上げることにしました。メモ帳に書いたのをコピペしてますので、文体が違うのはそういうことですよん。

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田中ましろ『かたすみさがし』 書肆侃侃房

 やわらかな叙情を片面に、真摯な言葉をもう片面に貼りあわせた歌集だと感じた。

 歌集という分類上、全体を通した感想はちょっと述べにくいので、気に入った歌を幾つか引用して、それについてコメントする、という書き方をしたい。

 P6 山あいの町に異物としてふたり歩めば蝉の罵声を浴びる

 「ふたり」は付き合ってまだ間もないのだろうか。夏の田舎町、うだるような暑さが「蝉の罵声」というBGMで伝わってくるようだ。「異物として」「蝉の罵声」という、よそよそしさ、あるいは居心地の悪さを感じさせるような表現が、「ふたり」の微妙な関係を醸し出しているようにも感じる。ひょっとしたら、ただ夏の暑さに嫌気が差しているだけなのかもしれない。けれども、「ふたり」が例えば倦怠期を迎えていて、この後どうなっていくのだろう、ということを考えると、ちょっとドキリとしてしまう。
 さよならポニーテールの「夏の魔法」によく似た景色を感じたのは、僕だけだろうか。
きみとつくったマボロシを 消えないように抱きしめた ふりして
夏の魔法がとけてもきみは 変わらぬ気持ちで いるかな
ふたり素直になれるかな


 P79 君水金地火木土天海冥僕くらい離れて廻る教室

 やられた!と、思った。こんな書き方は、実に卑怯だ。
 「君」「僕」の教室の席が離れているだろうことが惑星(あ、冥王星は準惑星だ)の両端にいることから伝わってくる。そしてまた、この二人の精神的な距離も(きっと「僕」の側が一方的に想いを寄せているだけなんだろうけれど)離れている、ということも読み取れる。そしてこの(ある意味セカイ系っぽい)壮大な比喩によって、これは悲劇的な恋ではなくて、青春の一ページに収まるような、ユーモラスなものなんだろう、とも感じられる。
 五七五の部分を頭のなかで音読すると、とても心地よく言葉が廻る。「君」が最初で「僕」が最後なのも大切なポイントなんだろう。「君」は太陽に近く、輝いているように感じる一方で、「僕」は太陽系の端の端の存在で……。思い返せば意外と狭い「教室」という空間でも、「僕」にとっては(少なくとも「君」までは)宇宙レベルのスケールのものだ、という感じが伝わってくる。
 ひとつ前のページにあるこの歌もまた、若さを謳歌している爽やかさが感じられる。
 P78 教室の窓から先はぜんぶ空 約束がなきゃ飛び出すような


 と、上述したような叙情さたっぷりの歌とは全く違う味わいの、作者が切々と心情を吐露している歌も収められているのがこの歌集の特徴だ。父親の手術、入院、退院。それらの歌がまとまっている。

 P56 親の顔したがる親の口元へ水を差し出す病室の午後

 もう既に、子供の頃とは違って、親が自分よりも強い人間として存在しているわけではない。むしろ自分の手助けがなくては、親は生きていくことは難しいほどに弱ってしまっている。昔と、立場が逆転してしまっているわけだ。
 けれども親はあくまで親のままで、「親の顔したがる」わけである。子供に世話をされるほど弱った姿を誰よりも認めたくないのは、親自身に間違いあるまい。だからこそ、あくまでも気丈に「親の顔したがる」のだろう。
 そして、作者自身もそれは分かっている。「水を差し出す」という表現に注目したい。「水を飲ませる」でも「水を与える」でもなく「差し出す」という、敬意のこもった言葉が使われているのだ。親が少しずつ弱っていく中で、自分は相手を親として敬い、そういった態度で(言葉には出さなくても)接する。
 次第に何気ないものになっていくであろう介護の光景を、鋭くとらえた一首だ。


 最後に、次の首を挙げて終わりにしたい。

 P127 すずむしも鳴きだしている 夜だ おいてきぼりにされてしまった

 喧騒や雑踏から離れただけではない。自分がひとりぼっちになってしまったかのような夜の不安が、ひたひたと迫ってくるようだ。
 いったい何から「おいてきぼりにされてしまった」のかは、分からない。ちょっと靴紐を結んでいる間に、仲間が先に行ってしまったのかもしれない。待ち合わせに遅れて、一人で歩まねばならなかったのかもしれない。あるいは、社会や世間から、自分はおいてかれてしまったのかもしれない――。
 言葉には出さないし、そう考えて何かが解決するわけでもない。けれども、時折理由もなく感じる侘びしさや、世知辛さのようなものが、突然群れをなして心に焦燥をもたらすことがある。その私の中の不安が知覚を狂わせて、夜の景色をおどろおどろしく、人ならざるものの跋扈しそうな、背筋がぞわりとする情景へと変えていく。
 「すずむしも鳴き出している」のだ。「すずむしも」、ということは、他にも何かが鳴いているのだろう。それは一体なんだろうか。昆虫なのか、それとも――。


 切り取られた風景は、どれも日常のワンシーンにすぎない。それを完璧に写生するのではなく、あえて比喩や情念を入れ込むことによって、読者を世界に誘い、さらなる想像をかきたてている。