卒論で人は救われるのかもしれない | Papytat~東京農工大学生協読書部~

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こんにちは。現代表です。
リーダーズネットワークは昨日まで代表してました。
書くことが久しぶりすぎて、完全にペンネームを失念しています。どうしよう。

閑話休題、そんな自分も気がつけば学部4年生。で、この時期。
もう完全に卒論の重圧じゃないですかー!やだー!
嫌よ嫌よも好きのうち、とかそんな話ではなく、精神的にも、肉体的にも辛い時節になっているわけでありまして、もう早春の季語に「卒論」を採用しても大丈夫だよなあ、と日々思いつつ府中駅から通っているわけであります。

ただ、そんな苦しくてキツくていや~~~な卒論だからこそ、人が救われるのかもしれないな、と疲弊しきった脳みそで思いました。大仰だけども。
それまで、半ばテキト~に処理してきたレポートだったり、「採点者」を想定して書き上げた答案なんかとは違って、卒論くんに対しては、そんなベタベタと取ってつけたようなウソはつけないし、ついてはならないわけでありまして。
自分がやってきたもののうち、完全に立証された結果だけを挙げないといけない、そういう相手が卒論くんなわけです。しかも、発表したり論文にしたりできる「有用な」結果以外は全て心の中に秘めて抹殺しておかねばならない……。
ただ、そんな容赦のない、厳しい、ともすればヒールともいえる性格の卒論くんがいるからこそ、アカデミックな領域と市井の人々とを隔てる境界線の役割を担えているんじゃないかなあ、と。

もっと言うなら、告解の真逆かなあ、と感じています。
自らが自覚したあらゆる罪に対して赦しを乞い、翌日からの日々の憂鬱を取り除く役割が告解にあると思うのですが、それはつまり、理想の生き方(罪を犯さない、純白な)と現実の生き方(何らかの罪を犯してしまう、真っ白ではない)の境界線であり、番人であって、人々がその両方の生き方を行き来する手助け・見張りをしてくれているわけです。
んで、卒論くんも、僕達の市井(ゆるゆる、簡単)と学問領域(キツキツ、難しい)の境界線であり、番人になってくれている。だから、学問の世界が頽落することなく保たれているし、あるいは逆に、日常が息苦しくなりすぎないように確保してもくれている。
そう考えると、少しばかりは卒論くんに感謝かなあ、なんて思います。

……というか、そう思わないとやってられねえよっ!

以上、雑記でございました……。


あ、最近読んだ本のオススメは、この話からも分かる通り、内田樹『日本霊性論』でござんす。
小説だとロン・カリー・ジュニア『神は死んだ』がめちゃくちゃ面白かったっす。
一神教が国家/国民の同一性を保障しているような西欧諸国において、その「神」が死んだらどうなるんだろうか?というSF的な連作短編集。日本人みたいな、ふわふわ感性宗教ピーポーが欧米のキッチリカッチリキリスト教システムを感性で理解するのにうってつけだな~って思いました。

さて、卒論の要旨づくりに戻らねば……。

ktku(PN これにしました。でも忘れそうだなあ。)