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皆さんは、明石花火大会歩道橋事故を覚えていますか。 2001年7月21日、第32回明石市民夏まつり花火大会が行われた日のこと。 私は当時、明石ケーブルテレビのアナウンサーで、その日は市民夏まつりの特番の為、浴衣を着て花火大会会場の浜辺でロケをしていました。 まだ花火が中盤の頃、カメラマンが異変を感じます。 花火大会主催テントから流れるアナウンスの内容にも異変が。歩道橋が混んでいる為ルートを変えるよう、、、といったような内容を冷静ながらもずっと繰り返していた気がします。 ロケを中断し歩道橋方向へ何事かと歩いている途中、横たわる大ちゃんを呼び叫ぶ、お母さんの声が響き渡りました。 そして歩道橋下の海岸へとつながる地面には、次々ぐったりしている人々が流れ込んできていました。 その一面が横たわる人の絨毯へと変わっていったのは、それはほんの一瞬の出来事の様な気がします。しかし、それから救護が到着する迄は、あまりに長い時間が経過していた気が致します。 救急車はここには到達できなかった。 一面には横たわる多くの人々。しかし目線を変えると、すぐ近くではその殺気だった状況に全く気が付かず、打ち上がる海上の花火に見入っているカップルがいる。 海上は予定通り花火大会のクライマックスが。 この信じ難い現実に、私の頭も心も身体も全く反応出来ず、立ち尽くしていました。 そのあまりに情けない、何も出来なかった、しなかった自分に、それからずっと後悔が残っています。 あの時、ほんの少しでも何か出来なかったか。 私はまがりなりにもマイクを持っていたのです。 大ちゃんの訃報は局に戻りNHKのニュースで知りました。ショックでした。 明石ケーブルテレビの撮影した花火大会の映像は当時全国に流れていましたね。 どう整理をつけたらよいかわからず、私は辛い触れたくない記憶として、心の奥底にし舞い込みました。そうしたことも、自分は最低な人間に思え誰にも言えませんでした。 それ以来花火大会は、苦しさを呼び起こすものとなり、又、大ちゃんを呼ぶお母様の悲鳴に近い悲しい叫び声が、頭から消えることはありません。 ここに来ることさえ足が竦み、思い出せば視界が涙でにじむ私には、いまだ何も出来ず、ただ思い出すだけです。 それでももう仕方がないじゃないと、自分に期待することをやめ、お花とココアを手向けさせて頂きました。 明石はとても良いところです。 事故が起きてしまった朝霧歩道橋からは、明石海峡大橋が見事に見渡せる美しい景色が望めます。 先日訪れた際も、海水浴に来たのだろう方々が歩道橋から次々写真を撮っていました。 事故後に生まれた方々でしょう。私が碑に手を合わせていると、何かあったの?と話しながら通り過ぎていきました。 思い出すことしかできないバカな私ですが、もし今この長文を読んでいただいた方がいらっしゃり、風光明媚なこの場所で起こった事を思い出していただけたら、私の日記も少しは意味があるのではないかなと思ったりもしています。 これから人が多く集まる場所に行かれる方、主催側の方、ほんの一瞬でも18年前に起きたこの群衆による事故を思い出していただきたいのです。 警察の事情聴取を受けたこと、憶測での間違った内容がニュースで流され続けたこと、、、まだまだ記したいことはありますが、何度も書き直し、これでも短くなりました。 最後まで読んでいただき、本当にありがとうございます。 #どうしても行きたかった場所 #大ちゃんへ #ごめんね #ひまわりがしばらく咲いていてくれますように #夏まつり #花火大会 #朝霧歩道橋 #大蔵海岸

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