良い本を読む時、良い器を見る時、つまりは良いものに触れる時、人であろうとものであろうと、場所であろうと、兎に角、自分の中にあるモヤモヤした形になりそうでならない何かが、はっきりとして、再発見される気がする。

その再発見をさせてくれるものが良いものと言えるかもしれない。
少なくともその重要な要素なんだと思う。

最近、ある東京の骨董屋さんのインスタを見る機会があってそんな事を思い出した。

SNSとか新しいものにはかなり奥手の自分でも、このインスタを見た時は、素直に感謝した。

言葉もない、というのはそう滅多にあるものではないけれど、コメント1つ打つ事もためらわれる。


それは、ティーポットといくつかの洋梨が、前後左右に間隔を置いて、古いテーブルの上に置かれていた。

セザンヌの静物画には、物と物の間にリズムがあるだったか、そんな事を洲之内徹さんは書いていた筈だと思い出した。

それを置いた人の生きる姿勢が見えるというと、笑う人もあるかもしれない。けれども、私にはそれだって人の人生の現れだと、そう見えてしまうのだから仕方がない。
先日、ある演奏会に行った。
それはDNAといって、ドクターとナースとアーティストが催す演奏会で、お客様も歌ったり手を叩いたりして参加してもらおうという企画の演奏会だった。

クラシックの演奏会では、小さいお子様はご遠慮下さい、とか、なんとかそういうアナウンスが、携帯や時計などのアラームの注意と共にあるものだが、今回は、小さなお子さんが騒いでも構いません、というアナウンスがあった。
勿論、携帯とかの鳴り物は禁止。
こういうのも偶には良いと思ってしまった。

ところで、私は遡る事数ヶ月、このDNAの団長である先生に、診察の時に頼まれ事をされた。
勿論、一発返事で了承したのだけれど、つまりは、演目の椿姫の乾杯の歌とか夏の思い出とかフニクリフニクラとか、ラデツキー行進曲とか、第九のフロイデ!とかお客様にも歌ったり手を叩いて貰いたいけど、その際のサクラになって欲しいとの事だった。

当時、早い目に行くと会場のロビーでその先生が、案内をしてくれて、ここならかぶひつきで、ソリストのテノールのHさんにプレッシャーをかけられるでしょう、と。

それで、遠慮なく歌ったり手を叩きました。
それでも遠慮してフニクリフニクラの最後は音を上げずにふつうに歌いましたよ。

それはそれとして、大好きなブラームスの四番の交響曲をちびっこが目の前で走って横切る中で聴くことになろうとは思いもせず、思わず笑ってしまいました。

大の大人でもあの曲は眠くなるだろうなぁ、とは思っていたので、だよね、と。


さて、問題は、私です。
前の方に座ってはいても隣には見知らぬ人がおられる中で、歌う経験をしたかったという事。
まだまだ慣れが必要です。
そんな事を思いながら、声出にくいなぁ、
感覚が違うなぁ、と思いながらも歌った訳ですが、隣に座った方からは、趣味ではない、と、お褒めのお言葉を頂き、お互いお辞儀して別れたのですが、何とも不思議な演奏会でした。

しかし、つくづくといついかなる時もそうならざるを得ないポジションで歌うようにしないといけないなぁ、と反省しつつ、それでも良い経験だったし、楽しかった演奏会でした。

さてさて、ソリストさん達にプレッシャーを与えられたかは分かりませんが、色々と気づく事はありましたが、ノーコメントにします。