中学の美術の副読本に、ピカソの絵が出ていた。妻の自画像。
それを見て、ある同級生はこんなのは自分でもできる、と、まぁ、よくある話だ。
私は、内心…いや、やめておくが、初めて見たその絵に、ピカソってこの人を本当に愛しているんだなぁ、奥さんか?愛人か?、などと思って見とれていた。
ピカソはデッサンが上手かった、上手すぎて、行き着いた先が、いかに下手になるか、だった、なんて話をどこかで読んだ気がする。それに、あのキュビズムというのも、一見おかしなデタラメに見えるかもしれないが、池田満寿夫が言うには、二次元の画面にコップの横、上、下、全てを書き現そうとするものであると、であるならば、エジプトの横向きの人物像も立体感を出すための表現方法なのだし、やってる事は如何に世界を全て表現するか、という点においては同じだと思う。
表現方法の模索は、つまり、進歩と共にあるのだから、変化して当然だと思うし、人と同じではありえないのは宿命だ。
話が逸れたけれど、よく、アート、だのアーティストだのと言って、如何にもそれが価値あるもの、イケてるもの、みたいな扱いをされる時、勿論、集客的にそういう風潮を利用するのは分かるけれど、とても胡散臭いものを感じる。
それは、中学のやんちゃな同級生の軽口を大の大人がするような、そんな感じだ。
モダンとかポストモダンとか、良く知らないし、知りたくもないが、要は、頭ばかりでかくなった爪の小さなカニが泡吹いてるだけなんだろう?と言うのが私の先入観。
詳しくは、洲之内徹の気まぐれ美術館を読んでもらえば、とても面白いやり取りが書いてあるので、おススメします。
興味があれば今時直ぐに調べられるので、これ以上は書きませんが。
つまり、職人という事の意味を再認識してはどうか?とずっと考えているという話。