私がお茶を習っていたのは、中学になる春からで高2までやっていて、そしてそれきり習っていない。何年かまえに、習っていた先生のお宅を、昔、父が書いた茶掛けのことで父と訪ねると、先生は亡くなっておられ、また、先生の旦那さんに「お茶のことはもう忘れましたか?」と言われたことがあった。私は先生にかなり期待されていて、後で聞いたところ、「養子縁組をして家元に」という話もなったと親から聞いた。其の私が、あれこれ言えば、先生の旦那さんに怒られるかもしれないが、しかし、それでも、書き残しておこうと思う。
最初に書いておきたいのだが、私はお茶のことを忘れた事はない。ただ、「お茶というものを習ってもお茶のことは分からない」と高2時に考えたから離れたのだし、その後、白洲正子さんの本を読むようになる私にとっては必然の成り行きだという認識がある。また、その間、すこしの間、年賀などをやり取りしていたが、二浪した負い目とかなんとか、今から思えばくだらないことを気にして、疎遠になってしまった。要するに、一面、驚くほど大人の考えを持っていながら、多面、不思議なほど子供であったと言うほかはない。
さて、過去を悔やんでもどうしようもないので、題の入り口について書こうと思う。
私のお茶の先生は後にも先にも只一人、桑原綾子先生である。このことは、習っていた時に先生にも伝えたし、今も変っていない。流派は不昧流という。その不昧流も、私が習っていた当時から、2派あって、不昧会と大円会とあるのだが、私は前者であった。どっちがどうというのは私には関係ないが、後者についてはあまり良い印象がない。
特に、自慢話をするつもりはなく、そう受け取ってもらいたくはないが、私は習って半年位で、桑原社中の朝の茶会で手前をしたことがあったが、中には、何年もしているお弟子さんを差し置いて私が務めることに異論をいう人もあったようだ。
また、他の先生が主客をした内の社中の茶会の際に、私が濃茶の手前をしたのだが、その時、私は、知り合いの方から沈寿官の白薩摩を借りて使ったことがあった。それは、とても可愛い雀と金の竹林の絵付けの、それでいて黒が良く効いた落ち着いた良い茶碗だった。しかし、ご存知の方は「あれ?可笑しい」と思われるだろうが、本当は濃茶は無地の茶碗と決まっていて、私がそれを知ったのは、手前をしている最中、茶器拝見の時に次客の桑原先生が主客の先生に「本当は絵付けの茶碗はいけませんが、うちうちのお茶会なので、本人が使いたいというのでそうさせました。」という話を聞いたときだった。私は「へぇ、そうなのか」と思っていたものだ。
私は当時、先生と話しをするのが楽しかった。自分が考えている事が通じたからで、先生もその考えを良しとされていたと思う。なので、自由を許してくださったと今思えばそう思う。
其の私と他の人との決定的な差は、他の人は「手前の順番」が第一なのに対して私は、絶対的に茶碗という物が第一であった点だと思う。私にとって物の見方は茶碗が教えてくれた。よって、私の感性の先生は嘘偽りなく茶碗なのだ。親父は見せるだけで余計なことは言わなかった。私は茶碗が話をしてくれまで、それこそ、無口で厳しい師匠が口を開くのをじっと待つように茶碗と接し、いつも心の中で頭を下げていた。私にとって茶碗は、単なる物ではない。
そして、そういう接し方もまた、誰から言われる事もなく、そうするのが当たり前のことだ思うことすらないほど自然なことだった。今、思えば、他のお弟子さんと違う点は、この点であろうと思う。そして、また、お茶を離れずにはいられなかった原因も此処にある。それは白洲正子さんの本を読んでもらうと分かってもらえると思う。
裏だったか表だったか、アメリカ人の宗匠がテレビに出ていた。別に私は外国人がお茶をしようと特に感慨はない。要はお茶の精神が残っていけば良いと思っている。しかし、この宗匠にとって、私が見る限り、茶碗は物だ。「Bowl」だ。それは、持ち方をみれば直ぐに分かる。他にも、島根の松江市を特集した番組でお茶を点ていたのをみた。太鼓胴の柄杓だった。しかし、どこの流派か知らないがこの人も茶碗は物だ。そういう考えで、お茶の精神がわかるということなのだろうし、それが日本の文化だ、おもてなしだという事なのだろう。
私は小学校を卒業する冬から高2のやめるときまで、水屋で稽古に使う茶碗を選ぶ時にどれでもいいと思って選んだ事は一度もない。ある中で一番いいもの使っていた。また、今でもお茶を練るにろ点てるにしろ茶筅を引き上げる時、心の中では頭を下げる心地がする。
青山二郎さんは「もしも精神というものがあれば形になってあらわれなければ嘘だ」と言っていたと白州さんは書いている。では、その精神が形になった茶碗、道具を単なる物として考え、扱う人間が本当にお茶の精神を分かっていると言えるのだろうか?
最初に書いておきたいのだが、私はお茶のことを忘れた事はない。ただ、「お茶というものを習ってもお茶のことは分からない」と高2時に考えたから離れたのだし、その後、白洲正子さんの本を読むようになる私にとっては必然の成り行きだという認識がある。また、その間、すこしの間、年賀などをやり取りしていたが、二浪した負い目とかなんとか、今から思えばくだらないことを気にして、疎遠になってしまった。要するに、一面、驚くほど大人の考えを持っていながら、多面、不思議なほど子供であったと言うほかはない。
さて、過去を悔やんでもどうしようもないので、題の入り口について書こうと思う。
私のお茶の先生は後にも先にも只一人、桑原綾子先生である。このことは、習っていた時に先生にも伝えたし、今も変っていない。流派は不昧流という。その不昧流も、私が習っていた当時から、2派あって、不昧会と大円会とあるのだが、私は前者であった。どっちがどうというのは私には関係ないが、後者についてはあまり良い印象がない。
特に、自慢話をするつもりはなく、そう受け取ってもらいたくはないが、私は習って半年位で、桑原社中の朝の茶会で手前をしたことがあったが、中には、何年もしているお弟子さんを差し置いて私が務めることに異論をいう人もあったようだ。
また、他の先生が主客をした内の社中の茶会の際に、私が濃茶の手前をしたのだが、その時、私は、知り合いの方から沈寿官の白薩摩を借りて使ったことがあった。それは、とても可愛い雀と金の竹林の絵付けの、それでいて黒が良く効いた落ち着いた良い茶碗だった。しかし、ご存知の方は「あれ?可笑しい」と思われるだろうが、本当は濃茶は無地の茶碗と決まっていて、私がそれを知ったのは、手前をしている最中、茶器拝見の時に次客の桑原先生が主客の先生に「本当は絵付けの茶碗はいけませんが、うちうちのお茶会なので、本人が使いたいというのでそうさせました。」という話を聞いたときだった。私は「へぇ、そうなのか」と思っていたものだ。
私は当時、先生と話しをするのが楽しかった。自分が考えている事が通じたからで、先生もその考えを良しとされていたと思う。なので、自由を許してくださったと今思えばそう思う。
其の私と他の人との決定的な差は、他の人は「手前の順番」が第一なのに対して私は、絶対的に茶碗という物が第一であった点だと思う。私にとって物の見方は茶碗が教えてくれた。よって、私の感性の先生は嘘偽りなく茶碗なのだ。親父は見せるだけで余計なことは言わなかった。私は茶碗が話をしてくれまで、それこそ、無口で厳しい師匠が口を開くのをじっと待つように茶碗と接し、いつも心の中で頭を下げていた。私にとって茶碗は、単なる物ではない。
そして、そういう接し方もまた、誰から言われる事もなく、そうするのが当たり前のことだ思うことすらないほど自然なことだった。今、思えば、他のお弟子さんと違う点は、この点であろうと思う。そして、また、お茶を離れずにはいられなかった原因も此処にある。それは白洲正子さんの本を読んでもらうと分かってもらえると思う。
裏だったか表だったか、アメリカ人の宗匠がテレビに出ていた。別に私は外国人がお茶をしようと特に感慨はない。要はお茶の精神が残っていけば良いと思っている。しかし、この宗匠にとって、私が見る限り、茶碗は物だ。「Bowl」だ。それは、持ち方をみれば直ぐに分かる。他にも、島根の松江市を特集した番組でお茶を点ていたのをみた。太鼓胴の柄杓だった。しかし、どこの流派か知らないがこの人も茶碗は物だ。そういう考えで、お茶の精神がわかるということなのだろうし、それが日本の文化だ、おもてなしだという事なのだろう。
私は小学校を卒業する冬から高2のやめるときまで、水屋で稽古に使う茶碗を選ぶ時にどれでもいいと思って選んだ事は一度もない。ある中で一番いいもの使っていた。また、今でもお茶を練るにろ点てるにしろ茶筅を引き上げる時、心の中では頭を下げる心地がする。
青山二郎さんは「もしも精神というものがあれば形になってあらわれなければ嘘だ」と言っていたと白州さんは書いている。では、その精神が形になった茶碗、道具を単なる物として考え、扱う人間が本当にお茶の精神を分かっていると言えるのだろうか?