9月6日は、社会事業家フランシス・ライトが生まれた日(1795年)だが、「近代科学の父」ジョン・ドルトンの誕生日でもある。
ジョン・ドルトンは、1766年、英国イングランドのカンバーランド州イーグルスフィールド村で、貧しいクェーカー教徒(友会徒)の一家の子として生まれた。ジェイムズ・ワットが蒸気機関の改良に成功した翌年である。
ジョンの父親は畑を耕し、手織り機で織物を織る半農半工の農夫だった。
クェーカー教徒の小学校で成績優秀だったジョンは、12歳のときにはみずから教師・校長となって村の子どもたちを教える学校を開いた。自宅や礼拝所を教室とした。その私塾経営が行き詰まると、70キロメートル離れたケンダルの町まで徒歩で行き、そこで兄が教師をしていたクェーカー教徒向けの小学校の教師助手になった。
英語、ラテン語、ギリシャ語、フランス語、数学、簿記、幾何学、航海術、測量法、地理、光学、力学、気体学、水力学などさまざまな教科をジョンは教え、学校経営も担った。教えながら雑誌の懸賞問題に応募し、地元の碩学に師事して常に勉強した。また、20歳の頃から気象観測をはじめ、これを生涯続けた。
26歳のとき、ジョンは学校を兄にまかせ、産業革命で急成長していた町マンチェスターへ引っ越していき、長老派教会がつくったマンチェスター学院の教師となった。
そこで彼は、数学、力学、幾何学、簿記、物理学、化学などを教えながら『気象学上の観測と論文』を発表。28歳のとき『色覚の視覚に関する異常な事実』を学会で発表した。
ジョン・ドルトンは色覚異常だった。それに気づいた彼は、色の見え方の調査、研究をただちに開始し、研究を発表した。これは人類史上初の色覚異常の学問的研究とされる。
ドルトンは熱学、光学の論文も書き、アントワーヌ・ラヴォアジェの『化学原論』の英訳本を使って授業をしていた化学分野の研究にも力を入れた。
36歳のころ学院を辞職し、それまでアルバイトでやっていた個人教授だけで食べていくことにした。研究する時間を作るために、安定した職を捨てたのである。
35歳のとき「ドルトンの法則」を発見。これは、混合気体の圧力が、各成分の分圧の和に等しいことを示すものである。
そして39歳のとき、ラヴォアジェの単一物質リストをさらに推し進め、原子の質量を求め、原子記号を考案し、原子表を発表した。
彼の原子記号は、円のなかに記号や図形が描かれたもので現代では使われていないし、彼が求めた原子量や分子構造は現代知られているものとはだいぶ異なる。ドルトンは水の分子を、酸素原子と水素原子が一対一で結びついたものと理解していた。彼の計算や化学反応の解釈は後に多くくつがえされた。しかし彼の一歩は大きかった。ドルトンをもって、人類ははじめて、化学的変化を、原子の結合と分離の結果として理解するようになった。
ジョン・ドルトンは、1844年7月27日、自室で亡くなっているところを家政婦によって発見された。77歳だった。その前日まで気圧、温度、天候の観測記録をつけていた。
生涯を独身で通し、クェーカー教徒らしい質素な、時間割を決めた、判で押したような規則正しい生活を送った人生だった。
先天性色覚異常を英語で「ドルトニズム(Daltonism)」といい、「ドルトン」の名を冠した、自然科学の奨学金が英国に、同じく名を冠したクレーターが月にある。
(2026年9月6日)
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