7月8日は、「すべての道はローマへ通ず」と言った仏国の詩人、ラ・フォンテーヌ(1621年)が生まれた日だが、米国の実業家、ロックフェラーの誕生日でもある。
ジョン・デイヴィソン・ロックフェラー・シニアは、1839年、米国ニューヨーク州のリッチフォードで生まれた。父親は怪しげな新商品を売る山師的なセールスマンで、母親は堅実なプロテスタントのバプテスト(浸礼教会)派だった。ジョンは子どものころから、家にいない父親の代わりに奮闘する母親を助け、家事を手伝いながら、七面鳥を育て、じゃがいもやキャンディーを売ったり、金貸しをしたりして家計を助けた。
高校時代、商科大学で10週間のビジネスコースを受講して簿記を学んだジョン・ジュニアは数学と経理が得意で、子どものころ将来は音楽家になりたいと考えていたという。
16歳のとき、製造委託会社の経理の仕事につき、そのころから、乏しい給料のなかから6パーセント、あるいは10パーセントと割合を決めてバプテスト教会に寄付していた。
これは『旧約聖書』の「レビ記」に由来する、収入の十パーセントを教会へ寄付する「十分の一税」というヨーロッパ・キリスト教社会の習慣にのっとったものである。
20歳のとき、友人といっしょに製造委託会社を設立。
24歳のとき、製油所に投資を開始。ここからロックフェラーの石油帝国建設がはじまった。彼はお金を借り入れと企業買収、利益の再投資などによって事業を拡大させ、鉄道会社と密約を結んで、自社の石油製品を競合他社よりも格安で輸送させ、競合相手を追いつめ、吸収または倒産させ、市場を独占していった。そうして彼が43歳になったころには、全米の石油産業の95パーセントが彼の会社「スタンダードオイル」の傘下に入っていた。
ロックフェラーの前には、ライバル企業や、労働者側の抵抗、独占禁止法も立ちはだかったが、彼は戦いぬいた。そうして世界一の大富豪となった。
50代のころ事業から身を引きだしたロックフェラーは、63歳のころには完全に引退し、慈善事業に力を入れはじめた。終生敬虔な信者だった彼は、さまざまな大学に多額の寄付をし、ロックフェラー医学研究所(後のロックフェラー大学)を創設した。ここの研究員に野口英世がいる。そのほか、ロックフェラー衛生委員会を作り風土病の根絶に貢献し、ロックフェラー財団を創設して、この団体を通じて公衆衛生、医学、教育、芸術など幅広い分野に貢献を続けた。晩年は、会う人ごとに数セントを寄付していたロックフェラーは、1937年5月、動脈硬化により没した。97歳だった。
「妻の判断はいつもわたしのそれよりすぐれていた。彼女の鋭い忠告がなかったら、わたしは貧乏人のままだったろう」
ロックフェラーはそう言っている。彼を大富豪にしたのは奥さんかもしれない。
ロックフェラーがきれいごとだけで事業を拡大したのではないことはよく知っている。労働者には悪魔の顔、社会福祉には天使の顔をもつ。ロックフェラーの評価については功罪相半ばするが、10パーセント寄付といい社会還元といい、日本人にはもって鑑とするべき点が多いのではないか。
野口英世がロックフェラーの研究員としてアフリカで伝染病の研究中、黄熱病で病死したとき、本来は現地で火葬される決まりだった処、ロックフェラーが、
「だめだ。ヒデヨの遺体をアメリカへ連れて帰れ。ちゃんと葬ってやるのだ」
と、鶴の一声を発した。ロックフェラーが言えばルールなど曲がってしまうもので、野口の遺体は金属製の特別の柩に密閉されて運ばれ、米ニューヨークの墓地に埋葬された。
(2026年7月8日)
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