エイプリル・フールの4月1日は、心理学者アブラハム・マズローが生まれた日(1908年)だが、映画俳優、三船敏郎(みふねとしろう)の誕生日でもある。

日本を代表する映画俳優、三船敏郎は、1920年、当時日本の租借地であった、現在の中国、山東省の青島(チンタオ)市で生まれた。父親は、秋田県の生まれで、満州へ渡り、大連(ダーリェン)に写真館を開いていた。敏郎は長男で、下に弟と妹がいた。
大連中学校に入学した敏郎は、学校に通いながら父親の写真屋を手伝っていたが、20歳になる年に徴兵され、甲種採用、満州の陸軍に入隊した。
陸軍では航空隊所属で、写真の心得があるということで、写真部に配属され、航空写真を扱った。この時期、不敵な面構えの敏郎は軍のなかでそうとう殴られたらしい。殴られても倒れないので、生意気に見え、さらに殴られるのである。
入隊の翌年、航空教育隊に転属となり、隊とともに大陸を引き揚げ、本州の滋賀県へ引っ越してきた。そうして、写真の技師や炊事担当をし、戦争末期には、熊本の特攻隊基地へ移り、そこで少年兵の教育係をしながら、出撃してゆく特攻隊員の遺影を撮影する業務をおこなった。自分が教え育てた少年たちの写真を撮り、つぎつぎと生きて戻らぬ特攻作戦に出撃していく彼らを見送るという悲痛な作業を黙々と続け、終戦を迎えた。後に三船敏郎は家族に、このときの思い出を涙ながらに語ったという。
25歳で敗戦を迎えた三船は、軍隊時代の先輩を頼りに上京し、映画会社の東宝を訪ねた。撮影助手として雇ってもらおうと考えたのである。しかし、なぜか三船は俳優の採用試験にまわされ、東宝の第一期ニューフェイスに補欠採用されることとなった。
俳優業を嫌っていた三船は、撮影部に欠員が出れば、そちらへ移動するつもりだったが、谷口千吉(たにぐちせんきち)監督に説得され、映画「銀嶺の果て」に出演した。
27歳だった三船のデビュー作「銀嶺の果て」の脚本を書いたのが、後の巨匠、黒澤明(くろさわあきら)で、黒澤はこの作品で三船が見せた役者としてのきらめきを認め、彼を自作に出演させようと腹を決めた。
三船は28歳で黒澤明監督の作品「醉いどれ天使」に、主役の一人として出演。闇市で暗躍する気の荒いヤクザを演じ、新進俳優として一躍その名をあげた。以後、三船は「野良犬」「羅生門」「七人の侍」「生きものの記録」「蜘蛛巣城」「隠し砦の三悪人」「用心棒」「天国と地獄」などの黒澤作品に主演し、黒澤監督とともに世界的に有名になった。
映画制作会社・三船プロダクションを設立して、制作、監督にも乗りだした三船は、「レッド・サン」「太陽にかける橋 ペイパー・タイガー」「1941」など海外映画に出演し、「風林火山」「人間の証明」「お吟さま」「二百三高地」「深い河」などの話題作に出演した後、1997年12月、多臓器不全のため、東京の病院で没した。77歳だった。

奔放、野性的な若者を演じてデビューした三船は、やがて、黙々と働くサムライを好演し、後に苦み走った壮年役へと転じた。三船敏郎こそは、早川雪洲、マコ岩松、ゴジラと並んで、ハリウッドの歩道にその名が刻まれている、世界的日本人俳優である。

それにしても、家業の写真屋を手伝ったことが、三船敏郎を軍の写真隊へ導き、それが彼の命を救い、彼を映画の世界へ導き「世界のミフネ」にした、この運命の不思議さは驚くべきで、すると、とにかく、親の手伝いだけはしておくべきである。
(2026年4月1日)

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