5月13日は、名短編『アルルの女』の作家アルフォンス・ドーデ生まれた日(1840年)だが、伝説のマラソンランナー、円谷幸吉(つぶらやこうきち)の誕生日でもある。

円谷幸吉は、1940年、福島県の須賀川町(現在の須賀川市)で生まれた。
父親は元軍人の農家で、7人きょうだいの末っ子だった幸吉は、父親のきびしいしつけで育った。小さいころ、飼っていた秋田犬を散歩させ、よく近所を駆けまわっていた。
円谷家では、母親は田畑で働き、子どもたちは家の仕事を手伝った。中学時代から珠算をしていた幸吉は、高校の機械科に進み、高校二年のころから、ジョギングしだし、教諭に誘われ、陸上部に入部した。円谷は基礎体力作り、フォームの改善に取り組み、長距離走選手ながら、スピードをつけるために短距離走の部員といっしょにダッシュする練習をさせられた。
5000メートルや駅伝の選手だった円谷は、高校を卒業すると、家計を助けるため、たまたま見かけたポスターにより、陸上自衛隊に応募・入隊した。
19歳になる年に青森、八戸の陸上自衛隊に入隊した円谷は、福島の郡山の砲兵隊に配属となった。円谷は郡山の自衛隊内で同僚と二人で陸上部を立ち上げ、一般の長距離走競技やロードレース、駅伝に参加するようになった。
猛練習のためと、子どものころの関節炎にも原因があると考えられる持病の椎間板ヘルニアを抱え、治療しながら、痛みに耐えながら成績を積み上げ、東京オリンピックに向けた強化訓練生となった。このとき、コンビを組んだのが、コーチの畠野洋夫で、円谷はここでもスピードをつける練習を重ねた。結果、円谷は1万メートル走とマラソンの東京オリンピック日本代表選手に選ばれた。
1964年、円谷が24歳のときに開催された東京五輪では、まず1万メートル走で6位入賞を果たした。そして、陸上競技の華、マラソンがスタートとなった。
円谷は注目選手ではなかった。スタート後、前回ローマ五輪の優勝者アベベ・ビキラはトップに立つと、何度もスパートをかけて後続選手をふるい落とし、独走態勢をかためた。このレース展開に、円谷のこれまでのスピード練習が生きた。「走る哲人」アベベのレースに食い下がり、円谷は3位でゴールイン。人生で4度目のフルマラソンが五輪銅メダルという快挙だった。有力視された日本人選手、君原は8位、寺沢が15位だった。

「日本陸上界を救った」と言われた救世主・円谷は、つぎの目標を次回メキシコ五輪に向けトレーニングを再開したが、からだのあちこちが故障し、さらに自衛隊体育学校の上官が、円谷の結婚話を破談に追いこみ、畠野コーチを左遷するという人災に見舞われた。
円谷は孤独のなか、椎間板ヘルニアの手術を受け、心身ともにぼろぼろの状態となり、1968年、メキシコ五輪の年の1月、自衛隊体育学校宿舎の自室のベッドで、カミソリで首筋の動脈を切った。
「父上様、母上様、三日とろろ美味しうございました。干し柿、もちも美味しうございました。……」(『孤高のランナー 円谷幸吉物語』)
有名な美しい遺書を残し、円谷は逝った。27歳だった。

円谷幸吉の栄光と挫折は、ある日本人の典型を象徴的に示して切ない。それは、悲しくも美しい、純朴な魂のきらめきである。彼の死の後、日本のスポーツ界では、選手のメンタルヘルスケア体制が整備されだした。これは円谷選手の遺産、命の代償である。
(2025年5月13日)



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