3月7日は、『砂の女』の作家、安部公房が生まれた日(1924年)だが、音楽家ラヴェルの誕生日でもある。
モーリス・ラヴェルは、1875年、仏国の、スペインとの国境に近いバスク地方のシブールで生まれた。両親ともにカトリックで、母親はバスク系。父親はスイス系の発明家で、初期の内燃機関エンジン、初期のジェットコースターなどを発明した人物だった。
モーリスが生後3カ月のとき、一家はパリへ引っ越した。そこで彼は、6歳からピアノを練習しだし、14歳のとき、はじめてのピアノ・リサイタルを開いた。
パリ音楽院の学生となったラヴェルは「たいへんな才能」がある「いくぶん不注意」な生徒と評価された。18歳のころ、作曲をはじめ、同時期にカフェのピアノ弾きをしていたエリック・サティと出会った。
音楽院在学中の24歳のとき、ベラスケスが描いた「マルガリータ王女の肖像」からインスピレーションを受け、ピアノ曲を書いた。それが代表作のひとつ「亡き王女のためのパヴァーヌ」で、後にラヴェルはこの自作を管弦楽曲に編曲している。ちなみにこの曲はもともと「その昔、王女が踊ったような曲」という意味らしい。
26歳のとき、ピアノ曲「水の戯れ」、33歳で管弦楽曲「スペイン狂詩曲」などを発表し、ラヴェルの名声はしだいに高まった。
生涯を独身で通したラヴェルは、第一次大戦中に最愛の母親を亡くし、ひどく落ち込んだ。それを境に、あまり作曲が進まなくなったようだ。
1928年、53歳のとき、ラヴェルは北米への演奏旅行をおこなった。ボストン、ニューヨークなど、行った先々でラヴェルのコンサートは喝采をもって迎えられ、大成功をおさめた。ニューヨークでは、ラヴェルは、米国の作曲家ガーシュインと連れ立って、デューク・エリントンなどのジャズ演奏を聴きにハーレムへでかけた。そのとき、ガーシュインが、
「フランスの作曲法を学びたい」
と教えを乞うと、ラヴェルはこう答えたという。
「なぜ二流のラヴェルになりたがるのです? 自分は一流のガーシュインだというのに」
53歳でバレエ音楽「ボレロ」を発表。
57歳のとき、ラヴェルはタクシーの事故にあい、頭を損傷した。彼はやがて失語症の症状をきたすようになり、しばしば放心状態になった。病状は悪化し、痴呆症状をみるにいたり、1937年12月、ラヴェルは脳外科手術を受けることを決意する。手術後、彼はいったんは意識をとりもどしたが、すぐに昏睡状態におちいり、息を引き取った。62歳だった。
ラヴェルの名曲「ボレロ」の、同じテーマが延々と繰り返される構成は、じつは、脳障害の影響ではないかという説が、かつて米国のマスコミで取り沙汰されたことがあった。痴呆の影響が譜面を書くときに出て、同じフレーズばかり繰り返し演奏する曲になってしまったのではないか、と。もちろんこの説はある根拠をもって否定されたが、「ボレロ」のあの巧妙に計算し準備された曲構成が痴呆状態の頭でたまたま出来上がった産物であるはずがないのは自明である。
(2025年3月7日)
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