2月8日は、SF(空想科学小説)の父ジュール・ヴェルヌが生まれた日(1828年)だが、ファッションデザイナー山本寛斎(やまもとかんさい)の誕生日でもある。
山本寛斎は1944年、横浜で生まれた。本名の読みは「やまもとのぶよし」。
彼はコシノジュンコなどのもとで働いた後、独立。27歳のとき独立し、自分の会社を設立。英国ロンドンでコレクションを発表。これが機縁となって、デヴィッド・ボウイの衣裳を担当。歌舞伎の早変わりのような衣装や、「出火吐暴威」の文字が躍るマントなど、グラム時代のボウイのステージをコスチューム面から盛り上げた。
山本は31歳のとき、仏国パリでコレクションを発表。しかし、このころから彼のファッション・デザインが受けず、会社の経営もうまくいかなくなった。一時はウツ状態となり、自殺を考えて悶々とする日々をすごした。
その後、一念発起して、企業をまわってスポンサーを募り、「スーパー・ショー」と題した、ファッションと音楽とアート、舞台芸術をあわせた総合芸術イベントのプロデュース業を開始。スーパー・ショーを世界各国で開催し、鉄道車両など幅広い分野でデザイン、アートを展開した後、2020年7月、急性骨髄性白血病により没した。76歳だった。
山本寛斎のデザインの、ゆったりとした、大きめの服の感じが好きである。
たしか、大島渚監督が「戦場のメリー・クリスマス」をもって、カンヌ映画祭に乗りこんだとき、監督が着ていた「THE OSHIMA GANG」と染め抜いたTシャツも寛斎のデザインだった。
1990年ごろに放送されていた、作家、村上龍がホスト役を務めるテレビのトーク番組『Ryu's Bar 気ままにいい夜』にゲスト出演したときの山本寛斎の印象は鮮やかだった。スーパー・ライブのプロデュースに力を入れているころで、全身これエネルギーのかたまりといった風だった。ちょっと見ただけで、
「ただものではない。こんな人ならどんな分野でもきっと成功する」
と思わせるオーラがあった。
そのころ、山本寛斎がいっていたことばのなかで、スポンサーになってくれるよう企業にお願いするため、そこの社長宛てに、まず誠意をこめて手紙を書くところからはじめると言っていたこと。あるいは、世界の舞台で勝負しようとするとき、自分はなにをもっているのかと突き詰めて考えたとき、最後に残る自分の強さとは「自分のなかにある日本人」これしかない、といったこと。それから、友だちに「今年はやるぞ」という気持ちを伝えたくて、年賀状でなく、元旦に電報を打つといっていたことが印象に強く残っている。
こんな元気に満ちた人でも、挫折感に打ちのめされ、自殺ばかり考えていた時期があったというのだから、人生とは苛酷である。でも、それを乗り越えたことが、山本寛斎という人間をさらに大きくしたことはまちがいない。
(2025年2月8日)
●おすすめの電子書籍!
『ブランドを創った人たち』(原鏡介)
ファッション、高級品、そして人生。世界のトップブランドを立ち上げた人々の生を描く人生評論。エルメス、ティファニー、ヴィトン、グッチ、シャネル、ディオール、森英恵、サン=ローランなどなど、華やかな世界に生きた才人たちの人生ドラマの真実を明らかにする。
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https://www.meikyosha.jp

山本寛斎は1944年、横浜で生まれた。本名の読みは「やまもとのぶよし」。
彼はコシノジュンコなどのもとで働いた後、独立。27歳のとき独立し、自分の会社を設立。英国ロンドンでコレクションを発表。これが機縁となって、デヴィッド・ボウイの衣裳を担当。歌舞伎の早変わりのような衣装や、「出火吐暴威」の文字が躍るマントなど、グラム時代のボウイのステージをコスチューム面から盛り上げた。
山本は31歳のとき、仏国パリでコレクションを発表。しかし、このころから彼のファッション・デザインが受けず、会社の経営もうまくいかなくなった。一時はウツ状態となり、自殺を考えて悶々とする日々をすごした。
その後、一念発起して、企業をまわってスポンサーを募り、「スーパー・ショー」と題した、ファッションと音楽とアート、舞台芸術をあわせた総合芸術イベントのプロデュース業を開始。スーパー・ショーを世界各国で開催し、鉄道車両など幅広い分野でデザイン、アートを展開した後、2020年7月、急性骨髄性白血病により没した。76歳だった。
山本寛斎のデザインの、ゆったりとした、大きめの服の感じが好きである。
たしか、大島渚監督が「戦場のメリー・クリスマス」をもって、カンヌ映画祭に乗りこんだとき、監督が着ていた「THE OSHIMA GANG」と染め抜いたTシャツも寛斎のデザインだった。
1990年ごろに放送されていた、作家、村上龍がホスト役を務めるテレビのトーク番組『Ryu's Bar 気ままにいい夜』にゲスト出演したときの山本寛斎の印象は鮮やかだった。スーパー・ライブのプロデュースに力を入れているころで、全身これエネルギーのかたまりといった風だった。ちょっと見ただけで、
「ただものではない。こんな人ならどんな分野でもきっと成功する」
と思わせるオーラがあった。
そのころ、山本寛斎がいっていたことばのなかで、スポンサーになってくれるよう企業にお願いするため、そこの社長宛てに、まず誠意をこめて手紙を書くところからはじめると言っていたこと。あるいは、世界の舞台で勝負しようとするとき、自分はなにをもっているのかと突き詰めて考えたとき、最後に残る自分の強さとは「自分のなかにある日本人」これしかない、といったこと。それから、友だちに「今年はやるぞ」という気持ちを伝えたくて、年賀状でなく、元旦に電報を打つといっていたことが印象に強く残っている。
こんな元気に満ちた人でも、挫折感に打ちのめされ、自殺ばかり考えていた時期があったというのだから、人生とは苛酷である。でも、それを乗り越えたことが、山本寛斎という人間をさらに大きくしたことはまちがいない。
(2025年2月8日)
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