1月21日は、1月21日は京セラの創業者、稲盛和夫が生まれた日(1932年)だが、フェミニズム運動家、伊藤野枝(いとうのえ)の誕生日でもある。

伊藤野枝は、1895年1月21日、福岡県に生まれた。家が貧しかったため、叔母の家に一時預けられたこともあった。高等小学校を卒業した14歳のころから郵便局で働きだし、そのころから雑誌に詩や短歌を投稿。東京へいって勉強したいとの思いがつのり、15歳のとき、東京に住む親戚を頼って上京、高等女学校に入学。
女学校を卒業後、いったん福岡へ帰郷し、親の決めた許嫁と結婚した。じつは、野枝本人にことわりなく、女学校在学中に、実家のほうですでに仮祝言がすんでいたという。野枝はこのときのことを自伝的小説『わがまま』に書いている。
帰郷し結婚したものの、野枝は数日で家出し、東京へもどり、かねて恋愛関係にあった女学校の英語教師だった辻潤と同棲。これにより、辻潤は女学校を退職することになる。
伊藤野枝は、平塚らいてうの青鞜(せいとう)社に通い始め、女性月刊誌「青鞜」の雑誌作りや講演活動にたずさわりだす。
卒業から同棲までのこれら一連の事件は、すべて彼女が17歳のときのことである。
平塚から「青鞜」をひきついだ野枝は、辻とのあいだに二子を出産した後、大杉栄のもとに走る。これが21歳のとき。
当時、大杉には妻と、べつに愛人がいて、そこへ割って入った野枝を加えて四角関係となった。愛人が大杉を刃物で刺して逮捕されるなど、壮絶な愛憎劇があった後、結局野枝が大杉のもとに残る恰好で事態はおさまった。
社会運動家として警察に監視されつづけた大杉と野枝は、雑誌発行、文筆活動を通じて、労働者解放、女性解放を訴えつづけた。
1923年9月1日、関東大震災が起きた。震災の約2週間後、災害のどさくさにまぎれて、憲兵隊がかねてより目をつけていた活動家の大杉栄と、その甥と、この伊藤野枝を拉致した。三人は、憲兵隊内で暴行を受けた上で殺され、遺体は古井戸投げ捨てられた。伊藤野枝はそのとき28歳だった。

伊藤野枝の時代にはまだ普通選挙制度がなかった。裕福でない男と、すべての女は、まだ人間とみなされていなかった、といっていい。そういう時代に伊藤野枝はすでに、女性の権利はもちろん、女性の自我の確立、結婚制度の否定、自由恋愛の権利、人口中絶の問題まで論じていた。まだ女子に教育は必要ないという風潮が強かった当時、すでに女性の教育の必要を訴え、女子英学塾(後の津田塾大学)を創設していた津田梅子でさえ、伊藤野枝らの「青鞜」は危険として、塾の子女たちにかかわるなかれと通達したという。

伊藤野枝は、フェミニズムの運動家のエマ・ゴールドマンの『婦人解放の悲劇』を訳している。訳者がつけた「自序」のなかで、こう書いている。
「自分達のようにわがままでじきムキになって腹を立てたり、癪(しゃく)に障ったり苦しがったり、落胆したり、するものにはとても今の社会に妥協してあきらめて easy-going な太平楽を云って生きてはゆけない。全然没交渉な生活をするか、進んで血を流すまで戦って行くかどっちかだ」

彼女の行動は、時代を百年くらい先走ったものだった。現代にもってきてなおエッジが立っている。文字通り「恋と革命に生きた」で、この女性がいたことを日本は誇っていい。
(2025年1月21日)



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