9月13日は、イタリアの政治家チェーザレ・ボルジアが生れた日(1475年)だが、作曲家、アルノルト・シェーンベルクの誕生日でもある。

アルノルト・シェーンベルクは、1874年、オーストリアのウィーンで生れた。父親はユダヤ人の靴屋だった。8歳のころからヴァイオリンを弾きはじめたアルノルトは、音楽のかなりを独学で身につけた。
15歳の年に、父親が肺炎で亡くなると、彼は学校をやめ、銀行の徒弟として働きはじめた。17歳でオーケストラに加入し、そこでチェロを弾くようになった。
シェーンベルクはピアノ曲、室内楽曲、管弦楽曲、合唱曲など、さまざまな楽曲を作曲したが、彼はしだいに「無調」の音楽を探求するようになった。それまでクラシック音楽には、中心となる主音や終始音があったが、そうした「調性」がない音楽を彼は創造した。「六つの小さなピアノ曲」はその成果だと言われる。
さらに、シェーンベルクは、十二音技法を確立し、「五つのピアノ曲」を書いた。この技法は、12平均律にあるオクターブ内の12の音を均等に使用することで、そこによりどころを求め、調の束縛から離れようとするものである。
24歳のとき、シェーンベルクはルター派のプロテスタントに改宗した。が、後にナチスが台頭し、反ユダヤ主義が強まってきた35歳のとき、ユダヤ教徒にもどった。
第二次世界大戦がはじまると、シェーンベルクは米国へ避難し、西海岸カリフォルニア州の大学で教えながら、作曲を続けた。
1951年7月、喘息の発作により、ロサンゼルスで没した。77歳だった。
作品に、室内楽曲「浄められた夜」、合唱曲「グレの歌」などがある。

シェーンベルクは、その音楽も、生き方も、反抗的で、解放的だった。
シェーンベルクの無調、十二音技法のことをすこし知り、いまだによくわかっていないながら、なるほどなぁ、と納得する部分もある。
やはり音楽に自由を求める人は、ハ長調とかイ短調とかいった「調」から、曲を解放しようと考える。しかし、調をなくし、てきとうに音符をおいていけばよいかというと、そうでもなくて、てきとうにおくと、かえって調ができてしまう、といったこともある。そこで、十二音技法をよりどころとして、曲を作っていくのだろうけれど、この辺の事情は、ジャン・コクトーが詩の韻について言っていたのと通じる気がする。
「韻を抛棄し、また自由詩の愉快な乱雑さも拒否する僕たちには、どうしてもこれらに代わるなにものかが必要だった。それは子供がいつもたいがい冒されている頭脳の奇癖とかなり似ている。それは神秘的な均衡を保つことであり、人に見つからないで、生活を儀式で一ぱいにすることである。その儀式とは、例えば年齢、日付、家屋の番号などで計算すること、瓦斯燈や立木の間隔を歩数で計ること、通行人が右側にすれ違うとき左肩を上げること、その反対ならば右肩を上げること(中略)などをいうのである。」(佐藤朔訳「職業の秘密」『ジャン・コクトー全集第四巻』東京創元社)
きっとわれわれ人間は、なにかよりどころとなる縛り(約束ごと)がないと、ふらついて立っていられないのだ。
(2023年9月13日)



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