7月30日は、『嵐が丘』を書いた作家、エミリー・ブロンテが生まれた日(1818年)だが、日本の夭逝した作家、新美南吉(にいみなんきち)の誕生日でもある。
新美南吉は、渡辺正八(わたなべしょうはち)として1913年、愛知県知多郡の半田で生まれた。父親は畳屋で、正八は次男だった。名前は実は、兄が生後18日で亡くなっていたため、2人分生きるようにと兄の名「正八」を名付けられたものだった。
4歳のとき母親が病死し、彼は8歳でいったん産みの母親の実家の養子に出され、ここで彼の姓は「新美」となった。幼子のこと、寂しさ極まりない様子に、正八はすぐに実家へ戻されたが、姓は「新美」のまま残された。
父親は畳屋に学問はいらないという主義だったが、正八は突出した秀才だったため、教師が父親を説得し、正八は進学できることになった。
子どものころから身体が弱いかわりに勉強はよくできた彼は、10代半ばから童話や童謡を作り、ガリ版刷りの同人誌を作っていた彼は、その後、地元で代用教員をし、上京しては東京外国語学校(現在の東京外国語大学)の学生となって、「チチノキ」「赤い鳥」などの文芸雑誌に童謡や童話を投稿していた。
東京で大詩人・北原白秋の知己を得、師事するようになった彼は、童話や小説を精力的に書きつづけた。
19歳のころ「ごん狐」「のら犬」を発表。
そして21歳のころ、喀血した。
外語学校を卒業した後は、不景気の就職難のなか、商工会議所に勤めるかたわら創作を続けたが、23歳のころ、2度目の喀血をして倒れ、帰郷した。故郷に戻って養生し、小学校の代用教員をしたり、女学校の教師をしたりしながら創作を続けた。
良寛の伝記『良寛物語 手毬と鉢の子』を書き、27歳のころには文名も上がってきた。が、外の世界は戦争の暗い時代であり、彼の身体のなかでは病気が進行していた。それでも新美南吉は腎臓炎、喉頭結核のため、血尿を漏らし、喀血するからだをだましだまし、無理を押して創作活動を続けた。
29歳のとき、初の童話集『おぢいさんのランプ』出版。
そして、太平洋戦争中だった1943年3月に没した。29歳だった。
一時期、新美南吉の児童文学を集中して読んだことがある。名品「手袋を買いに」「ごん狐」はもちろんのこと、「おじいさんのランプ」「牛をつないだ椿の木」「でんでんむしのかなしみ」「川」「花のき村と盗人たち」などなど、いずれも興味深く、おもしろく読んだ。駄作がない人、つまり、若くして名人だった。
新美南吉の作品は、当たり前かもしれないが、それぞれの話ごとに趣が異なり、その趣がまたなんとも味わい深い。作品ごとに作者のいろいろな面を見せてくれる、頭のなかに広い世界、深い思想をもっている人である。この、暗い息苦しい時代に、病弱なからだをもって生き、若くして亡くなってしまったのが惜しまれる。豊かで、清冽な詩情の人だった。
「やがて、行手にぽっつりあかりが一つ見え始めました。それを子供の狐が見つけて、
『母ちゃん、お星さまは、あんな低いところにも落ちているのねえ。』とききました。
『あれはお星さまじゃないのよ。』と言って、その時母さん狐の足はすくんでしまいました。
『あれは町の灯なんだよ。』」(新見南吉・作『手ぶくろを買いに』偕成社)
新鮮な感受性をもち続けたいものだ。
(2023年7月30日)
●おすすめの電子書籍!
『世界大詩人物語』(原鏡介)
詩人たちの生と詩情。詩神に愛された人々、鋭い感性をもつ詩人たちの生き様とその詩情を読み解く詩の人物読本。ゲーテ、バイロン、ハイネ、ランボー、ヘッセ、白秋、朔太郎、賢治、民喜、中也、隆一ほか。彼らの個性、感受性は、われわれに何を示すか?
●電子書籍は明鏡舎。
http://www.meikyosha.jp

新美南吉は、渡辺正八(わたなべしょうはち)として1913年、愛知県知多郡の半田で生まれた。父親は畳屋で、正八は次男だった。名前は実は、兄が生後18日で亡くなっていたため、2人分生きるようにと兄の名「正八」を名付けられたものだった。
4歳のとき母親が病死し、彼は8歳でいったん産みの母親の実家の養子に出され、ここで彼の姓は「新美」となった。幼子のこと、寂しさ極まりない様子に、正八はすぐに実家へ戻されたが、姓は「新美」のまま残された。
父親は畳屋に学問はいらないという主義だったが、正八は突出した秀才だったため、教師が父親を説得し、正八は進学できることになった。
子どものころから身体が弱いかわりに勉強はよくできた彼は、10代半ばから童話や童謡を作り、ガリ版刷りの同人誌を作っていた彼は、その後、地元で代用教員をし、上京しては東京外国語学校(現在の東京外国語大学)の学生となって、「チチノキ」「赤い鳥」などの文芸雑誌に童謡や童話を投稿していた。
東京で大詩人・北原白秋の知己を得、師事するようになった彼は、童話や小説を精力的に書きつづけた。
19歳のころ「ごん狐」「のら犬」を発表。
そして21歳のころ、喀血した。
外語学校を卒業した後は、不景気の就職難のなか、商工会議所に勤めるかたわら創作を続けたが、23歳のころ、2度目の喀血をして倒れ、帰郷した。故郷に戻って養生し、小学校の代用教員をしたり、女学校の教師をしたりしながら創作を続けた。
良寛の伝記『良寛物語 手毬と鉢の子』を書き、27歳のころには文名も上がってきた。が、外の世界は戦争の暗い時代であり、彼の身体のなかでは病気が進行していた。それでも新美南吉は腎臓炎、喉頭結核のため、血尿を漏らし、喀血するからだをだましだまし、無理を押して創作活動を続けた。
29歳のとき、初の童話集『おぢいさんのランプ』出版。
そして、太平洋戦争中だった1943年3月に没した。29歳だった。
一時期、新美南吉の児童文学を集中して読んだことがある。名品「手袋を買いに」「ごん狐」はもちろんのこと、「おじいさんのランプ」「牛をつないだ椿の木」「でんでんむしのかなしみ」「川」「花のき村と盗人たち」などなど、いずれも興味深く、おもしろく読んだ。駄作がない人、つまり、若くして名人だった。
新美南吉の作品は、当たり前かもしれないが、それぞれの話ごとに趣が異なり、その趣がまたなんとも味わい深い。作品ごとに作者のいろいろな面を見せてくれる、頭のなかに広い世界、深い思想をもっている人である。この、暗い息苦しい時代に、病弱なからだをもって生き、若くして亡くなってしまったのが惜しまれる。豊かで、清冽な詩情の人だった。
「やがて、行手にぽっつりあかりが一つ見え始めました。それを子供の狐が見つけて、
『母ちゃん、お星さまは、あんな低いところにも落ちているのねえ。』とききました。
『あれはお星さまじゃないのよ。』と言って、その時母さん狐の足はすくんでしまいました。
『あれは町の灯なんだよ。』」(新見南吉・作『手ぶくろを買いに』偕成社)
新鮮な感受性をもち続けたいものだ。
(2023年7月30日)
●おすすめの電子書籍!
『世界大詩人物語』(原鏡介)
詩人たちの生と詩情。詩神に愛された人々、鋭い感性をもつ詩人たちの生き様とその詩情を読み解く詩の人物読本。ゲーテ、バイロン、ハイネ、ランボー、ヘッセ、白秋、朔太郎、賢治、民喜、中也、隆一ほか。彼らの個性、感受性は、われわれに何を示すか?
●電子書籍は明鏡舎。
http://www.meikyosha.jp
